向日葵

〜もうひとりのセカンドチルドレン〜



■ Eleventh Act …… the Longest Day(史上最大の作戦) ■



Presented by 史上最大の作戦





「は〜い、アスカ。睡眠は取れてる?」
 フランシス・リンネの言葉に、既にプラグスーツ姿のアスカは無言で頷いた。
 その返事に嘘はないようだ。瞳は一点の曇りもなく透き通っている。
「大丈夫、みたいね。結構結構」
「先生は、何でここに?」
「それはもう、あなた達に万が一の事があったりしたらいけないから、待機よ待機。
ハッスルするのはいいけど、怪我なんかしないでね」
「大丈夫よ」
 襟元の感触を気にしながら、アスカはそっけなく返答する。だがフランシスにそれ
を気にした風はない。
「いよいよね」
 ハンガーデッキだった。
 宙に突き出た形の桟橋の下には、ルビー色のエヴァンゲリオン弐号機が直立してい
る。人間で言うところの首の後ろの拘束具が開放され、エントリープラグが半分突き
出た形で飛び出している。パイロットを受け入れる体勢だ。
 足元や空中に作業員が十数名張り付き、最終調整に励んでいる。14歳にして大学
を卒業しているアスカだが、彼らが手にしている計器類やモニターに映し出されてい
る数字が一体何を意味しているのかは、さっぱり分からない。
「第三次冷却、終了しました!」
「顎関節拘束具、最終チェックOK!」
「擬似パルスによる右腕および左腕の反応速度、問題なし!」
 そんな声が、機械の反響音とともに耳に飛び込んでくる。
 言葉自体の意味は何となく分かるのだが、細かいところまで突っ込むと、やはり分
からない。
 分からなくてもエヴァは動かせる。世の中のドライバーで、一体何割の人間が自動
車の動く原理を知悉しているだろう?それと同じ理屈だ。
 そのエヴァは、胸のあたりまでLCLに浸かっていた。足元の作業員は、全員ウェ
ットスーツ姿だ。考えてみればLCLなのだから素潜りでも作業できるはずなのだが、
それは癖という部類に入るのだろうか。
 そしてもう一台、アレックスの搭乗するエヴァンゲリオン四号機は、このハンガー
にはいなかった。ここは1番デッキだが、エメラルド色のエヴァは3番デッキに移動
している。
 そして、アレックスの姿もここにはなかった。
「気になる、アレックスの事?」
 アスカの思考が読めるのかそれとも単なる偶然か、フランシスがアスカにタイミン
グよく訊ねた。
「……別に」
 既に一時間前、ブリーフィングは済ませてある。
 その席上で、改めて二人はこの模擬戦が「最終テスト」であることを知らされた。
「全く公平な条件、全く公平な状況で戦ってもらう。勝った方が正式にセカンドチル
ドレンとして登録され、日本の最前線に配属される」
 あらかじめ知っていた事とはいえ、ミズーリ司令のその言葉を聞くと、改めて緊張
感が背中を走る。
 しかしそれとは別に、アスカは別の意識で司令の顔を見ていた。
(この人が……アレックスの、父親)
 そしてアレックスを棄てた男。
 知らず知らず、アスカは自分の視界に両者の姿を同時に入れていた。
 気付いた事と言えば、二人が決して目を合わせようとしないという事。
 アレックスは手元にあるファイルに視線を落としっぱなしだったし、ミズーリ司令
の視線はフラフラとあちこちをさまよっている状況。
 確かに、世間一般で言うところの「親子」という像からは甚だしくかけ離れている。
 ……デッキ内のスピーカーが、女性の声で告げた。
「作業終了まで、あと10分です。LCL内の作業員は、撤収を開始して下さい」
 いよいよ、か。
 下半身の駆動系のチェックは全て完了した。あとはエントリープラグ周りの最終確
認が終わったら、エヴァはパイロットを待つばかりである。
 とはいえ、あと10分ある。長いような、短いような。
 仕方がないので、アスカは先ほどのブリーフィングでもらった資料をもう一度確認
した。
 模擬戦の戦場に設定されたのは、「オリュンポスの平原」の中心部、半径1キロメ
ートル。周りを柵で囲んでいる。
 内部は完全な平原。人工的な建造物は、緊急送電用の電源ソケットを除いては全く
存在しない。
 その電源ソケットは、各所に散らばるように6個所、配置されている。アンビリカ
ルケーブルの長さが300メートルであることを考えると、戦場の移動に関してこれ
を利用しないということは考えにくい。
 アレックスの事だから、こういった電源面の条件も計算に入れて戦うだろう。他の
事はともかく、そういう計算高さに関してはアスカは彼に最大限の評価を与えている。
 両者に与えられた武器は、パレットガンが一丁(全弾30発入り)、プログレッジ
ブ・ナイフが一丁。アスカはPK−02タイプ、つまりカッターナイフ状の改良版を
使う。アレックスは本人いわく「趣味で」旧式の通常ナイフタイプを使用する。
 もう一つオプションとして近接戦闘用の武器を選択できるのだが、アスカはソニッ
ク・グレイブを、アレックスはスマッシュホークを選んだ。前者は槍状、後者は斧状
という違いはあるのだが、どちらもビームによる格闘戦用の武器だ。あとは扱いやす
さと個人との相性の問題だ。
 今回、長距離狙撃用のポジトロンライフルは使用しない。対エヴァということだけ
を考えると(実戦ではまず絶対にありえないシチュエーションなのだが)、大出力だ
が重量のあるライフルは使えないのだ。またパイロットの安全性面にも少々問題がな
いわけでもなかった。
 これらの決して多いとは言えない武器を駆使して、いかに相手を戦闘不能にまで陥
れるか。それが今日二人に与えられた課題である。
 もう一度資料を読み、電源の位置を頭に叩き込む。勿論搭乗した後でもコンピュー
タで場所は確認できるのだが、記憶しておいた方が断然速い。反射的に動けるか否か
という問題は、この場合死活問題だ。
「作業終了5分前です、総員退去して下さい。繰り返します。作業終了5分前です、
総員退去して下さい」
 全てのチェック作業自体は、これで全て完了した。作業員の動きがよりスピードを
増す。
「さて……」
 資料を手近の机の上に放り投げると、アスカは軽く屈伸運動をした。プラグスーツ
が擦れてキュッという音を立てる。
 フランシスが、その後ろ姿に声をかける。
「最後に確認するわ。何か体調に変化はない?」
「別に」
「気分が悪いとか、頭が痛いとか……」
「大丈夫よ」
 女性にはついて回る生理については、一言も質問しなかった。健康状態について全
て知り尽くしているフランシスは、アスカどころか他の「チルドレン」の少女達の生
理的周期を完全に把握しているのだ。何だか心の奥の奥まで覗かれているようで、正
直アスカは落ち着かない。
「それじゃ、頑張ってね。私は司令室で見せてもらうわ」
 ぽんとアスカの背中を叩くと、フランシスは桟橋から立ち去る。
 身体を翻した時に感じた香水の匂いがこの場に不釣り合いで、不愉快だった。
 それが嫌だからというわけでもないのだが、早目にエントリープラグに入る事にす
る。ステップを二三段昇り、既に開かれているドアから身体を滑り込ませた。
 プラグ内も完全にチューニングが完了しており、瑕疵どころか塵一つ見当たらない。
 シートに深く腰を下ろすと、アスカは目を閉じて軽く深呼吸を行った。
「……アスカ、行くわよ」
 それは毎回毎回エヴァに乗るたびに、自分にかける自己暗示。一つの儀式。
 ジンクスというほどでもない。もしそれがゲン担ぎなら、今までアスカは無敗のは
ずなのだから。
 右手の人差し指が、インダクションレバーをコツコツとタップする。その事に気付
き、舌打ちをしそうになる。
「……そろそろ、かな」
 と呟いた瞬間、出し抜けにモニターにウィンドウが開いた。
「アスカ、行けるかね」
 ハインツ作戦部長の顔だった。
「いつでもOKよ。何ら問題なし」
「そうか。四号機も準備が完了したらしい。……では、起動するぞ」
「了解」
「よし」
 部長の映っていたモニタが消えた数秒後、どこからかうなり声が聞こえてきた。電
源が入った音だ。
「エントリープラグ挿入」
 オペレータの声がした。
 アスカは軽いGを感じた。プラグがエヴァに捩じ込まれる瞬間、いくらプラグ自体
が耐G設計になっているとはいえ、全ての衝撃を緩和してくれるわけではない。
「挿入完了。背部拘束具ホールド」
 勿論アスカからは見えないが、背後の装甲が閉じたのが感じられる。
「ホールド完了。第一次接続開始。LCL注水」
 同時に、足元に開かれた穴から黄色い液体が吹き出してきた。あっという間に踝、
膝、腰、胸、顔まで水位が上がる。
 アスカは一瞬息を止め、目を閉じた。
(せ〜の)
 頭の中でタイミングを計ってから、思い切って大きく息を吐く。顔に泡が当たるの
が感じられた。
 最後の最後の最後、限界の1ccまで息を吐ききってから、それから息を吸い込む。
液体がゴボゴボと音を立てて喉を通り、肺のあたりが急に冷たくなった。
 何度経験しても、この空気とLCLの交換だけは馴れない。このまま溺れ死んでし
まいそうな強迫観念にかられるのだ。
 人間の遠い遠い祖先が海の中にいたなんて話は嘘っぱちか、あるいはあまりにも昔
なので遺伝子が忘れてしまったかのどちらかだろう。そうでなければ、どうしてこん
なに水が怖い?
 数回深呼吸を繰り返すと、ようやく肺の中の空気全てが液体に入れ替わった。
「LCL注水完了。A10神経接続開始」
 水の中だからだろうか、少し声がこもって聞こえる。
「……ああ、そうか」
 少し苦笑して、アスカは鼻をつまみ、耳元に力を入れた。最後に残った空気の一塊
が、両耳から「こぼれ上がる」。
 耳に空気が残ると、音が伝わりにくい。潜水用語で言うところの「耳抜き」だ。
 脳波の信号は、このLCL(リンク・コネクト・リキッド)を伝わってエヴァに届
く。そのせいだろうか、首の後ろのあたりが妙にチリチリする。
「第一次接続完了。シンクロ率69%。起動レベルクリア」
「続いて第二次接続に入ります。モニタ点灯」
 その瞬間、アスカの周囲が虹色に輝いた。
 七色の光の乱舞。そして蜘蛛の網目のような模様が前後を流れ過ぎる。
 ぶぅんと、うなり声が聞こえた。
「モニタ点灯完了」
 そして次の瞬間、アスカの周りはハンガーデッキの光景に変わった。ちょうどエヴ
ァの頭部から見える風景だ。
 作戦部長の声がした。
「アスカ、調子はどうかね?」
「全く問題なし」
 試しに右腕を動かしてみる。派手な水音とともにルビー色の腕が持ち上がった。
 いつも通り、違和感は全くない。まるで自分自身の手足を動かすような感覚だ。
 声が、再びオペレータに代わった。
「外部LCL排水」
 ものすごい勢いで、モニタ眼下の水位が下がってゆく。エヴァが浸かっていたLC
Lが抜かれているのだ。
 完全排水まで、40秒もかかっていない。
「外部LCL排水完了。起動プロセス完全終了。第一次拘束具開放」
 エヴァの肩を繋ぎ止めていたアンビリカルブリッジが、金属音とともに外れた。
「パイロットは指定のマーカーポイントまで移動して下さい」
 アスカはその声に従い、エヴァに前進を命じた。一歩進むごとに、軽い衝撃と大き
な音が走る。
 アスカの神経はぎりぎりまで研ぎ澄まされていた。悪くない感触だ。首筋だけでな
く、全身を電気が走っている。
 十数歩で、所定のスタートラインに立った。目の前には、一面の壁。
「ゲート、オープン」
 壁が猛烈な勢いで上がった。シャッターが開いているのだ。
 同時に、目を刺す太陽光が洩れてきた。軽く目を細めるとその動きがシステムに反
映されたのか、スクリーンがかかったように光量が落ちた。
 傍らにセッティングされているパレットガンを右手に、ソニック・グレイブを左手
に装備する。
「さて……」
 呟くと、アスカはもう一歩前に出た。足の裏に感じていた金属の感触が、アスファ
ルトのそれに取って代わる。
それも数歩歩けば、土の感触になる。目の前は一面の平原。
 雲一つない上天気だった。エントリープラグ内は気温の感覚がないが、外はさぞか
し暑いだろう。目を凝らすと陽炎が立っているのが見える。
「……ふ〜ん」
 少し前屈みで前方の様子を注視していたアスカの口元が、軽く上がった。
 陽炎の向こう側から、人影……
 いや、人ではない。
 エメラルドグリーンのエヴァンゲリオン四号機が、ゆっくりゆっくりと現れた。
 輝く緑玉色の装甲が、太陽の光を受けて眩しく煌いた。


「パイロット04のシンクロ率、64%でホールド」
「両エヴァンゲリオンのハーモニクス、異常なし」
「パルスも正常位置をキープしています」
「ソニック・グレイブの通電テスト、問題ありません」
「スマッシュホークの通電テストも異常なし!」
 ヘッドセットを肩にかけた格好のハインツは、全ての報告を確認して、マイクを手
に取った。
「アスカ、アレックス、聞こえるか」
「はい」
「は〜い」
 二人分の返事が、二色に分かれて返ってくる。澄み切ったルビーと、どこか茫洋と
したエメラルド。
「両者、全て問題なし。今から模擬戦に入る」
「了解」
「了解」
「では……始めたまえ」
 始まりは、静かだった。


 先に動いたのは、意外にもアレックスのエヴァ四号機だった。
 どちらかというと、剣道にたとえたら「後の先を取る」タイプのアレックスが、出
し抜けに全速前進を命じたのだ。
 既にパレットライフルを右手に装備している。距離は700メートル。有効射程距
離だ。
「……ちっ!」
 アスカは正確に銃口の向きを判断した。瞬間的に右へエヴァの身体を投げ込む。
 数瞬後、先ほどまでアスカのいた場所を光弾がかっきり三発、駆け抜ける。後ろの
ハンガーのシャッターに当たり、がしゃん、とも、ばきん、ともつかぬもの凄い音が
響いた。
「キレてるのか冷静なのか分かんないわね、あいつ!」
 柄にもなく先攻したかと思えば、弾の使い方に無駄がない。相変わらず厄介な相手
だ。
 急速移動のためにバランスを崩しかけたエヴァを立て直す。
 ちり、と二の腕に電気が走った。
 考えるよりも先に身体が動く。立て直すか否かのギリギリでエヴァをジャンプさせ
た。
 今度は足元を、銃弾が一発だけ抉り取った。動いていなければ脛のあたりを撃ち抜
かれているところだ。
 アスカもやられっ放しではない。ジャンプした足が地面に着く前に、パレットライ
フルの銃口を相手に向けている。
 弾数を考えて、二射。
 こちらへ地響きをあげて走り込んでいたアレックスは、避けようとしなかった。目
の前にスマッシュホークを立てて、そのまま受ける。金属のきしむ音を立てて、劣化
ウラン弾が弾かれた。
 真昼に小さな花火が見える。
 四号機の足取りに変化はなく、急速に距離を詰めてくる。
「……格闘戦か!」
 アスカは瞬時に判断し、パレットライフルを左肩のケースに素早く叩き込む。こち
らもソニック・グレイブを両腕で握り、電源を入れた。
 距離は、一気に100メートルを切る。
 間合いが詰まる。
 判断と行動は、二人同時だった。間合いの見切りが、計ったように同じなのだ。
 アスカは右肩から袈裟懸けに。
 アレックスはそれを迎え撃つ形で振り上げるように。
 二つの刃がぶつかり合った瞬間、超新星のような火花が膨れ上がり、飛び散った。


「……互角、か」
 加持は呟いた。
 司令室の一角、オペレーティングの邪魔にならないようにひっそりと椅子を置き、
モニタで両者の動きを逐一確認している。と言えば聞こえがいいが、単に「観戦して
いる」だけだ。情報部在籍の加持には、こういう模擬戦では全く役割がない。
「どちらも冷静に相手を見て、必要最小限の攻撃だ。こりゃ長期戦になるな」
「予想できたことだ。だから戦場内に6個所、電源を設けている」
 数メートル離れた椅子に座ったミズーリ司令が、加持の独り言に返答した。
「アスカのシンクロ率は69%、アレックスは65%。これはまあ予想通りだな。や
はりエヴァの扱いに関して、アスカの方が一日の長ありだ」
「ですがアレックスはああ見えてかなり計算高いですな。シンクロ率の微少な差を戦
術で埋めらるかもしれませんよ」
「あとは本人の器の問題だよ、ミスター・カジ」
「はぁ、まあ」
 生返事をする加持。
「一つだけ、気になる事があるのですが……」
 二人の間に割って入るように、デッキから戻ってきたフランシス・リンネが司令に
報告した。彼女も加持と同様、「何もすることのない」人間だが、少なくともパイロ
ットに体調面での問題が出た時には仕事がある。
「何かね、ドクター」
 手元のモニタをチェックしながら、フランシスは首をかしげた。
「アレックスのメンタルバランスが、いつもよりも変動しています。通常の倍以上の
振幅ですわ」
「……アレックスが?」
「感情が不安定になっています」
 加持とミズーリ司令は、同時に顔を見合わせた。
 その表情を、どうたとえたらよいものか。
 口をついて出た言葉も同じ。
「感情が不安定?あの……アレックスが?」


 アスカのモニタに、一枚のウィンドウが開いた。
「へっへ〜、やるな、アスカ」
 アレックスの顔が映し出される。
 抜けた顔に、微かな笑みがこぼれていた。
「うるさいわね、戦闘中の私語は禁止、でしょ!」
 叫ぶと同時にソニック・グレイブを突き出す。
 それを正確にスマッシュホークの柄で受け止め、流すアレックス。
「……っとっとっと」
 軽く表情を変えるアレックスだったが、アスカは構わずに三発、右左右と斬撃を打
ち分ける。
「ちょっちょっちょっ!」
 唇を尖らせて、その全てをアレックスは受け止めた。さすがに速い。
「危ねぇ危ねぇ、当たったらどうすんだよ」
「知るか!」
 わめきながら、しかしアスカは微妙な違いを感じていた。細い筆で一刷毛だけ乗せ
たような、小さな小さな違和感。
(……何か、今日のアレックス、口数が多い?)
 勿論、アスカは全神経を戦闘に注ぎ込み、その手さばきには一ミリの逡巡も停滞も
ない。
 だが、それとは別の意識が、どこかでサイレンを鳴らしていた。
 ……おかしい。やっぱり、どこか変だ。
 茫洋とはしているが、決して戦闘中には笑わない性格のはずだ。人を食ったような
性格だが、そこらへんは妙に義理堅い。
 それが、口元にうっすらと笑みすら浮かべて斧を叩き付けてくる。見慣れない姿だ
けに、少し怖い。
(ハイに……なってる?)
 モニタごしの少年は妙に浮かれているように、アスカには見えた。
 しかし、その事に集中できるような余裕のある戦いではない。
 ……斬撃の応酬また応酬だった。
 突く。斬る。叩き付ける。
 受け止める。避ける。受け流す。
 刃が触れ合うごとにその接点からストロボのような閃光が飛び散り、二体のエヴァ
の身体を灼く。
 その光の隙間からさえ、二人は刃を捩じ込む。
 削り、削り、極限まで削り切った剃刀のような死闘だった。
 幾度、斧と槍が斬り結ばれただろう。
 先に距離を取ったのは、やはりアレックスだった。二歩分くらいの距離を飛びすさ
り、そこで動きを止める。
「……すげぇすげぇ、やっぱまともにやりあったら勝ち目ねぇな」
 口笛を吹く一歩手前の表情で感心してみせる。
 謙遜ではなかった。エヴァ四号機の手にしたスマッシュホークには、そこここに亀
裂、あるいは刃こぼれが生じていたのだ。
 常識から考えれば、信じられない状況である。
 叩き付ける事を目的に作られた斧は、突く事を目的とする槍よりも頑丈にできてい
る。扱う人間の技量が互角で、刃と刃をぶつけあう肉弾戦なら、先に壊れるのは槍の
はずだ。
 その差を埋め、それどころか逆転させてしまう、アスカの腕前。
「降参するなら今のうちよ」
「それも悪くないアイデアだが、もう少し悪あがきさせてくれ」
「好きにしたら?どっちにしろあんたに勝って日本へ行くのは、このあたしなんだか
ら」
「さあ、そりゃどうかな?」
「……?」
 アレックスに似合っているとも思えない台詞を聞いた瞬間、アスカは眉をひそめた。
 何か策を持っているのか?
「これなら、どうだ!?」
 アレックスが叫ぶや、手にしたスマッシュホークを大上段に構え、いきなり振り下
ろした。
 幹竹割りの要領だ。当たれば真っ二つとは言わないまでも、少なくともエヴァの頭
部くらい、やすやすと破壊してのけるパワーがある。
 だが同時に、それだけに隙が大きい。
「甘い!」
 アスカは無理に飛ぼうとはしなかった。動きは見える。だから必要最小限のモーシ
ョンで避ければいい。
 だから右へ半歩、流れるように動いた。それだけで避けるには充分。
 相手が振り下ろした瞬間は、それこそ隙だらけだ。斧が地面を叩くと同時に、右手
のソニック・グレイブを装甲板の隙間に突き込む。
 そのはずだった。
 必要最小限の動きで避ける、その事が重大な命取りだったのだ。
 ばちん!
 幾重にも束ねて引っ張ったゴム紐を鋏で切ったような音がした。
「あっ!?」
 いきなり弐号機のバランスが崩れる。既に反撃体勢に入っていたアスカは、慌てて
右足を倒れる方向に出した。
 何とか踏みとどまる。
 そして同時に、アスカは自分の身に何が起こったのかを察知した。
「……しまった……!」
 モニタに映し出されたアレックスの笑みが深くなる。悪魔の羽根で頬を撫でられた
少年のような笑い方だった。
「実戦では役に立たない。実に無意味な戦術だ。だが模擬戦、エヴァが相手の戦闘な
ら、これほど有効な手もないね」


 エヴァ弐号機の背中から延びているアンビリカルケーブル。
 地中の電源とエヴァをつなぐ大動脈が、今の斧の斬撃で断ち切られたのだ。
 吹き出すスパークがまるで白く光る血液のように、アスカの目には映った。


 オペレータの動きが途端に慌ただしくなった。
 モニタの片隅に突然数字が浮かび上がって、カウントダウンを始めたのだ。
「エヴァ弐号機、外部電源切断!内蔵電源に切り替えます!」
「活動限界まで、あと5分27秒!」
「……ほう。やりますな、アレックスも」
 加持が心底感心した風に唸る。
 ミズーリ司令もこういう展開は予測していなかったと見え、驚きの表情が薄くベー
ルになっている。
「さすがだな。今の一撃、あれは弐号機本体ではなく最初からアンビリカルケーブル
を狙ってたな」
「卑怯……と言えば言えるかもしれませんが、やはりこれはアレックスの作戦勝ちで
しょうな」
「確かに。今の攻撃、そしてアスカの受けた物理的精神的ダメージは大きいぞ。こう
なったらアレックスは焦る必要はない。じっくりと相手を攻めて、電源切れか相手の
神経が切れるのを待つだけだ」
「時間がないアスカも、焦るでしょうからね。ミスも出るでしょう」
 案外冷静に状況を語り合う二人。
「だがあの戦場には、6個所の電源設備が用意されている。まだまだ分からんぞ」
「相手が何も知らない『使徒』ならば、そうでしょうがね」
「ふむ」
「アレックスもその事は先刻承知だと思いますよ。そうたやすく、再接続の時間を与
えるでしょうかね?」


 加持の予想は当たっていた。
「まあ隙を与えはしないけど……用心に用心を重ねた方がいいな」
 アレックスはアスカに言うでもなく自分自身に言うでもなく呟くと、パレットライ
フルを再装備した。
「!?」
 近接射撃か。そう判断したアスカは銃口からエヴァを逃れさせようとする。この距
離でも、一瞬の集中力があればかわせる。それだけの腕前と自信を持つアスカだった。
 だが、その判断は間違っていた。
 目にも止まらぬ速さで、銃口が四号機ごと横に回転する。
 アスカの二の腕から背中にかけて、ざわっと鳥肌が立った。
 正確に5発、光の弾が宙を飛んだ。
 轟音とともに消し飛んだのは……
「あっ!」
 アスカは思わず叫んでいた。
 エヴァの腰ほどの高さを持つ、直方体のビルディングの形をした外部電源設備。
 それらが一つを残して、全て閃光と轟音の中に消え去ったのだ。
 残った一つからはアンビリカルケーブルが延び、そして碧玉色のエヴァの背中に吸
い込まれていた。
「これで、俺が使ってる奴以外の外部電源は、全部オシャカだな。NERVの経理担
当者が卒倒するかもしれんが、まあこりゃ大事なテストだ。我慢してもらおうかなぁ」
「……」
 全てあいつの予定通りだ。今の躊躇いのないアレックスの動きを見て、アスカは悟
った。
 ここに至るまでの全てを、アレックスはエヴァに乗る前から計算していたに違いな
い。
 弐号機のケーブルを断ち斬る事も、外部電源を全て破壊する事も。
 そうでなければここまで素早く、かつ正確に物事が運ぶはずがない。
「……そうか」
 だから、アレックスは最初に自分から動いたのだ。イニシアティブを取らせまいと
したのだ。
 冷たい何かが、アスカの背中を伝わった。LCLの中で汗を流す事はありえない。
神経が氷で冷やされる感覚。
 この勝負……負ける。
 かも、しれない。
 一瞬の心の躊躇いが、推測の文法を否定していた。
 正直な気持ちをそのまま言葉に写し取るならば。
 この勝負、アスカの負けだ。


「徹底してるなぁ……」
 加持は呻きに近い声を出した。
 アレックスの取った戦術が「弐号機の電源を断つ」事である以上、次にポイントと
なるのは残された外部電源だ。せっかくケーブルを切っても、外部電源設備には予備
のケーブルが備わっている。隙を突いて再接続すれば元の木阿弥だ。
 何か手を打つだろうとは思っていた。だがここまでやるとは、加持は正直予測でき
なかった。
 それどころか、アレックス・カーレンが自分から能動的に動く事さえ、考えていな
かったのだ。
 ちらりと、加持は隣に座る男の横顔を伺った。
 端正な髭が邪魔をして、ウィンストン・ミズーリの表情は分からない。
 この男は、今何を考えているのだろうか。
 自分の「息子」の活躍を喜んでいるのだろうか。
 ……本当に、心から、そうなのだろうか。
 彼は昨日、加持に言った。
 「エヴァのパイロット候補生にアレックスを選んだのは、彼に対する贖罪だ」と。
 本当……なのだろうか?
 アレックスを見ていれば、分かる。
 アレックスは、エヴァに乗る事を嫌っている。アスカと同じように。
 ミズーリの思惑と反して、アレックスはエヴァに乗る事を苦痛に思っている。
 その事を、父親の方は知らなかったのだろうか。
 知らなかったならば、合点がいく。
 だが、知っていたならば……もっと、合点がいくのだ。
 ウィンストン・ミズーリは、アレックスを憎んでいる。理論や理性を通り越して、
皮膚感覚のようなもので加持は悟っていた。
 父親は、息子を憎む。
 妻を半分いやそれ以上、「母」という単語に奪われるから。
 加持は、ふとサードチルドレンの事を思い出していた。
 碇司令の息子の事である。
 直接会ったことはまだないが(恐らくアレックスかアスカのどちらかを日本に連れ
て行く時に、会えることだろう)、彼もまた父親から憎まれていると聞いた。
 5年も放ったらかしにしておいて、いきなりエヴァのパイロットになる事を命じた
らしい。
 ミズーリ司令なら、碇司令の気持ちが分かるのかもしれない。
 だが、少し違う点がある。
 碇司令は妻と死別したが、ミズーリ司令は自らの意志で「アレックスの母親」と別
れた。
 ……罪の投影だから?
 アレックスという存在が、自分が過去に犯した罪悪の証拠となって存在しているか
ら、ミズーリはアレックスを憎むのか?
 ならば見なければよい。アレックスを呼ぶまでもなく、人生に接点も共通項も持た
なければよい。彼が息子を呼び寄せなければ、恐らくこの先一生会わずにすんだはず
なのだ。
 どうして、罪の証拠をわざわざほじくり返す必要がある?
 アレックスがいなくても、NERVには惣流・アスカ・ラングレーという天才児が
いる。それで充分だったはずだ。
 なぜ?
 しかし加持は、心の中の疑問形の奥底にある確信を認めざるをえなかった。
 憎むからこそ、呼んだのだ。
 やはりミズーリは、アレックスを憎んでいるのだ。
 だからこそ、呼び寄せて、エヴァに乗せて、苦しめたのだ。
 本人が望まない戦いの場、本人が望まない級友の嫉妬や羨望、本人が望まないエヴ
ァのパイロットという地位、本人が望まないアスカとの戦い。
 こうなる事を、父親は知っていたのだ。意識無意識にかかわらず。
「……」
 加持はウィンストン・ミズーリという名の男の顔を、子細に観察する。
 だがどうしても、表情は読めなかった。
 こんな時に、加持は彼と日本にいる「司令」との共通点を見つけてしまう。


 ……そして、四号機は弐号機に、襲いかかっていた。


「……くっ!」
 容赦なく降ってくる斧の形をした死神の鎌を、アスカはギリギリのタイミングで逃
れた。
 少し踏み込みが甘かった。総毛立つような音を立てて、パレットライフルを格納し
ているパッケージが飛ばされる。
 エヴァの腰のあたりまで降り落ちた斧の刃は、そこで止まらなかった。雷光のよう
なスピードで跳ね上がり、横殴りに腰をなぎ払おうとする。
 反射的にアスカは、さらに後方に飛びすさった。切っ先が腹のあたりの拘束具をか
すめて、眩しいほどの火花が散る。
(ああ、もったいない!)
 何よりも先にその事が頭をよぎった。
 エヴァにとっての動力源は、人類の生み出した炎たる電気。単独で動くエヴァにと
って、その電気の残り容量は掛け値なしの死活問題だ。
 今まで幾度となくエヴァに乗り続けたアスカは、常に「活動限界までの時間」を頭
に入れながら戦う。
 だから、無駄な動きがもったいない。
 A.T.フィールドは展開しなかった。したところでアレックスも同じ行動を取って
位相空間を中和してしまうし、展開に要する電力は格闘戦に使うそれの比ではない。
使うだけエネルギーの無駄だ。
「どうした?抵抗しないのか?」
 アレックスが笑いながら訊ねた。
 四号機との回線は開いたままだ。指先一つ動かすだけで天文学的数字の電力を消費
するエヴァにとってはゼロに等しいが、今のアスカにとっては通信に使う電力さえも
貴重だ。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
 アスカは喚いていた。頭に血が昇り、目の前が一瞬白くなる。
 ここで、終わりなのか。
 先ほどから頭は猛烈な勢いで回り、この状況を打開するための方法、方策を手当た
り次第に検索している。
 しかし、見つからない。思い付かない。脳は空回りするばかり。
 状況は悪化する一方だ。距離を置いて射撃戦に持ち込もうにも、今の攻撃でパレッ
トライフルを失ってしまった。拾い上げる余裕はない。
 ソニック・グレイブで攻撃したとしても、確かに何発かは打ち込む事ができるだろ
う。だが、自分の電源が切れてしまう前に相手を活動停止に追い込むには、到底及ば
ない。
 ここまでなのか。
(あたしは、ここで終わりなの?)
 唇の端を噛む。LCLとは違う血の味が、口の中に薄くひろがった。
 目は、モニタ越しに笑うアレックスを正面から見据えている。
「このまま粘っても勝てるけど……それじゃ、面白くないな」
 ぽつりと呟くと、出し抜けに目の前のエヴァ四号機が大写しになった。
「!」
 跳躍してきた!
 バックステップは……間に合わない!
「ほら!」
 凄まじいエネルギーをたたえた斧の一撃が、アスカの真上から降り落ちてくる。
 反射的な行動だった。既に自分の動作は、理性や判断という七面倒くさい回路を飛
び越している。
 アスカは弐号機の両腕を目の前でクロスさせ、斧を受け止めた!
 振動がアスカを、シートから跳ね上がらせる。
「ぐぅ……っ!」
 猛烈な痛みが、発狂寸前の痛みが両腕を走り抜けて爆発した。
 拘束具が吹き飛ばされ、茶色をしたエヴァの「生身」の腕がむき出しになった。蟹
の甲羅を思わせる真っ赤な装甲が散らばって落ちた。
「う……くっ……!」
 歯を食いしばり、痛みが鈍くなるのを待つ。
 待ち切れなかった。
「これで、終わりだ」
 アレックスは全くの躊躇いも見せずに、再び横殴りの一撃を送り込んだのだ!
 今度は、避ける事も防ぐ事もできなかった。


 弐号機の……アスカの左の横腹に、スマッシュホークが深々と突き刺さった。
 紫色の体液が、奔流となって吹き出す。
 同時に、弐号機のモニタに映されていた少年の顔が、消えた。


(終わるの?)
(ねえ、ママ。あたし、このままで終わっちゃうのかな)


「……終わったな」
 加持はため息混じりに呟いた。
(恐ろしい男だな)
 自分より一回り以上も年少の少年に、「男」という言葉を使う。それほど、アレッ
クスの動きと判断、そして冷静さは「凄い」を通り越して「恐ろしい」の一言だった。
(日本にいるファースト、サードよりも……強いかもしれない)
 自分の意志を持たず、目の前の事に命令通り対処するファースト。シンクロ率が急
に跳ね上がるけれども情緒的に不安定で、一定の力が出せないサード。
 アレックスの一連の動きは、そのどちらでもなかった。
 誰に指示されたものでもない。自らの意志で決定し、そのために無駄な動き一つ見
せずに、完璧に目的を遂行した。
 エヴァに乗るために生まれてきたというのは、彼のために存在する言葉なのかもし
れない。
 彼が日本に行けば、ファーストとサードをまとめる事のできる、最高のリーダーに
なりうるだろう。
 それでいいのかもしれない。
 アレックスにとっても……アスカにとっても。
 加持は、アスカがなぜエヴァに乗るのか、ある程度理解していた。
(死人に心を奪われるのは、間違っている)
 本人に直接言ったわけではないが、加持はそう思っていた。
 アスカの今歩いている道は、決して彼女の望んだ道ではない。
 彼女の心に巣食っている「母親」が、選ばせてしまった道。
 ……そろそろ、解放されてもいいのではないか。
 少し気が強いけど、普通の女の子としての人生もまた悪くないだろう。
「パイロット02、生命レベルが危険域に入ります!」
「シンクロ率急速低下、現在52%!」
「左16ブロックの神経回路切断!!」
「パイロットの精神レベル、急速低下しています!」
 オペレータの声が、司令室の中を塊となって飛び交う。
「これで、決まりか。案外あっけなかったな」
 ミズーリ司令の声が聞こえて、加持はその横顔を見た。
 相変わらずの不動。
「決まりですかな?」
 司令は横目で加持を見ただけだ。
「ああ、文句ないだろう。日本へ行くのは、エヴァ四号機。パイロットはセカンドチ
ルドレン、アレックス・カーレン」
 ずっと決まらなかった「第二の適格者」の称号が、今この瞬間に少年に与えられた
事を、加持は知った。
 ミズーリの声にかぶさるように、オペレータの声が聞こえた。
「内部電源、停止しました!エヴァ弐号機、完全に沈黙!!」
 それは無情な宣告だった。
 ミズーリ司令は呟いた。
「……さて、回収作業に入るか」


 たった今「セカンドチルドレン」に決まった少年は、無言でシートに座っていた。
 瞳は静かに、横たわるエヴァ弐号機の姿を映している。
 ぴくりとも動かなかった。アレックスも弐号機も。
 弐号機の横っ腹から、紫色のエヴァの体液がこぼれて、地面に薄気味悪い染みを作
っている。
 アレックスの放った一撃は弐号機の腹部拘束具を完全に粉砕し、エヴァの本体組織
にも致命的な損傷を与えていた。
 中にいるアスカは、痛みのあまり恐らく意識を失っているだろう。
「ここまでやるつもりは、なかったけどな」
 ひどく疲れた顔で、アレックスはぽつりと、呟いた。
 その声は、複雑な色をしていた。
 悲しみ、後悔、同情、憐れみ、自己嫌悪。全てが溶け合い、それぞれの色を曖昧に
している。
 戦闘中に見せた薄ら笑いは、その翳さえも見せていない。
 半分近く泣きたそうな顔をして、アレックスは聞くはずもない相手に語りかけてい
た。
「すまない」
 それは、アスカが一番聞きたくない言葉だろう。
「俺には、この道しか残ってないんだ。親父とお袋、俺はあの二人を見返してやりた
い。そのための道は、これしかなかった。
 俺はお前に勝つ。勝たなければ、正パイロットになれない。
 だから、容赦しなかった」
 聞く者など誰もいないのに、アレックスは呟き続けている。あるいは自分自身に語
りたかったのかもしれない。
「お前は強い。だけど、背負ってる物は俺の方が重かったんだ」
 アレックスは首を振った。言葉の無意味さに気付いた顔だった。
「……すまない」
 もう一度謝罪の言葉をかけると、アレックスは四号機に反転を命じた。
 ゆっくりと、碧色のエヴァが元来た道を戻ろうとする。
 恋人と別れた男のような足取りで、エヴァはハンガーへ戻っていった。
 一歩。
 二歩。
 いや、三歩歩いただろうか。
「……?」
 少年の二の腕が、不意に粟立った。
 脊髄を雷光が駆け上がり、頭の中で冷たい火花を散らす。
「……な……に?」


(ゆら……ゆら)
(水の滴り)
(波紋)
(暗闇の向こうに遠く見える、一点の光)
(弾ける)
(弾ける)
(光の水泡が広がる)
(ゆら、ゆら……ゆら)
(弾ける……)
(弾ける……)
(弾ける!!)
(弾ける!!)
(弾ける!!)


 ミズーリ司令の顔が、初めて動いた。
「回収作業待て!各員待機!!」
 加持も椅子から立ち上がっている。
「な……?」
 呆然とモニタを見上げて呟く。
「何で……?」
 目はエヴァに釘付けになっている。
 エヴァを。
 碧色のエヴァではない。
 紅色のエヴァを。
 ゆっくりと起き上がる、血の色をしたエヴァ弐号機を。


「何だと……?」
 アレックスの顔が、緊張に満ちた。
「何で、何で動けるんだ……!?」
 ゆらゆらと、モニタ越しの弐号機は立ち上がっている。幽鬼のごとく。
 常人ならパニックに陥る状況で、アレックスはかろうじて一掴みの理性を手にして
いた。
「内部電源は完全に使い切ったはずだ。いや、それ以上に腹部のダメージは脊髄ギリ
ギリまで届いているはずだ。動けるはずがない!
 ……何をした、アスカ!?」


「状況を報告しろ!弐号機の状況はどうなっている!?」
 ハインツ作戦部長が怒鳴った。
「パイロットの心拍、血圧ともに正常値!」
「メンタルレベルは0、意識がありません!」
「内蔵電源容量、ゼロ!」
「シンクロ率は……!」
 報告しようとしたオペレータの声が、凍り付いた。


「し……シンクロ率、132%!!」


 弐号機の目が、輝いた。
 頭部拘束具の内側に深く深く隠された、四個の目。
 切れ長の、悪魔のフードの中に埋もれたような鋭い目。
 ぎぎぎっ……
 顎部が、凄まじい軋み声をあげる。
 ばきっ!!
 何かを引き剥がすような音を立てて、弐号機の顎が開いた。
 ああ、口が見える。
 笑うような、口が。
 鬼の笑い。


「これが、エヴァ……」
 重大な認識の誤りを、加持は悟っていた。
 今、分かった。
 エヴァはロボットなどではない。人造人間でもない。
 人だ。
 人、そのものなのだ。


「……じゃないわよ」
 雑音混じりの声を、アレックスの耳は捉えた。
 スクリーンの片隅に開いているウィンドウは、ホワイトノイズだけを映し出してい
る。
 映像は切れたが、音声は届いているらしい。
「何だと?」
「ふざけてんじゃ……ないわよ」
 アスカの声は、まるで寝言のように穏やかだった。
(意識が、ないのか?)
「自分一人が不幸だなんて、勝手に思い込んでんじゃないわよ」
「……何だと?」
「そうやっていじけてるのって、楽しい?父親にも母親にも裏切られた、可哀相な自
分を慰めてるのって、楽しい?」
 アレックスの顔に、朱が昇った。
「黙れ!」
 それは……アレックスが「心を閉じ込め」てから初めて口にする、感情的な声だっ
た。
 つまり、アスカの言葉はアレックスの心の中心を正確に貫いていたのだ。
「そうやっていっつも、ぼ〜っとしててさ、絶対に心を見せないのって、それってす
ごく楽よね。絶対に傷つかなくてすむんだから。
 ……あんたは強くなんかないわ」
「黙れ、お前に何が分かる!お前にそんな事を言う資格があるのか!?」
 言ってから、気付いた。
 アレックスが言おう言おうと思っていて、言えなかった言葉を、今、言った。
「お前にそんな事を言う資格があるのか?」
 それは、母親に言いたかった言葉。
 言えなくて飲み込んだ言葉。
 無線の声は、少しだけ笑ったかもしれない。
「あたしには、分かるの。あたしにしか分からない事よ。あんたとあたしは、同じな
んだから」
「……!」
 その声に、アレックスは何を感じたのか。
「何が『エヴァに乗るのは、親父とお袋を見返すため』よ。笑わせないでよね」
「違うって言いたいのか?」
「ええ、違うわ。あたしには分かるのよ」
 今度ははっきりと、無線越しのアスカは笑った。


「あんたはね、アレックス。父親と母親に認めてもらいたいから、エヴァに乗ってる
のよ。
 『よくやった』って誉めてもらいたいから、乗ってるのよ」


 ……アレックスの声と動作は、全く同じだった。
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ!!!」
 全く戦術も何もない。スマッシュホークを両手に握り締めて、揺れる弐号機へと襲
いかかる。
 計算もなかった。ただ、立ち上がったもののゆっくりと揺れている弐号機を捉える
のは、楽だという意識がどこかにあったろう。
 斜めから袈裟懸けに打ち下ろすスマッシュホーク。
 それの柄を、掴んだ物がある。
「……なっ!?」
 慌てて出力を最大にする。
 だが、止められた斧はびくとも動かない。
 エヴァ四号機の全力の斬撃を、一発で止めたのは。
 弐号機の左手。
 片手一本で、弐号機は斧を止めてのけたのだ!
「そんないじけた奴に、あたしが倒せるわけないじゃない」
 アレックスのモニタに、弐号機の顔が大写しになっていた。
 いつも見せる顔ではない。装甲板が開き、奥の奥に、まるで人の目のような輝きが
見える。
 ぎらり。
 二対、四個の目がさらに輝きを増した。
 獲物を狙う、獣の目?
 ……違う。
 これは……
(獲物を捕らえた、獣の目だ!!)
 弐号機が右腕を引いているのに、アレックスは気付いた。
 一歩退く。いや、飛びすさろうとした。
「!!」
 動けなかった。
 四号機は斧を握っている。
 そしてその斧を、弐号機は渾身の力で握り締めていたのだ!
「しまっ……!!」
 慌ててスマッシュホークから手を放そうとする。
 ちょっと、遅かった。


 弐号機の右手のソニック・グレイブは、正確に四号機の喉を貫き、引き斬った。
 高々と、一個の物体が宙を飛ぶ。
 ……首だ。
 四号機の首が、宙を舞っていた。
 エメラルドグリーンが、太陽の光を逆光に浴びて一瞬まばゆく光る。
 紫色の糸を引きずりながらゆらゆらと、落ちて。
 「オリュンポスの平原」に、轟音とともに落下した。
 その頃には……
 エメラルドグリーンのエヴァンゲリオン四号機は、両膝を突いて倒れ込んでいた。


 どよめきが、オペレーティングルームを揺らした。
「逆転……か」
 波の音に似たざわめきの中で、加持は自分の声をどこか遠くのもののように聞いて
いた。
 司令室はエアコンがきいている。だが背中をいく筋にも伝うのは、間違いなく汗だ。
 アスカの……惣流・アスカ・ラングレーの、勝ちだ。
 しかし……
「これが、エヴァンゲリオン……」
 加持が直視するモニタには、少し前屈みになって屹立するエヴァ弐号機の姿が大映
しになっていた。
 何が兵器だ。
 何がロボットだ。
(こんな……こんな化け物を作り出して、許されるのか?)
(NERVは……いや、人類は、許されるのだろうか?)
「見たかね、ミスター・カジ。これがエヴァの本当の力だよ」
 振り向いたミズーリ司令は、口元に笑いを浮かべていた。
「エヴァの……本当の力?」
「本当の姿と言い直してもよい。普通の物理学、普通の概念にはおさまらない存在、
それがエヴァンゲリオンなのだよ」
「普通の概念にはおさまらない……」
「そうだ。そしてそれこそが、『使徒』を倒すことのできる絶対唯一の力だよ」
 何を知っているのだ、この男は。
 いや、ミズーリ司令だけではない。
 NERVの幹部は、上層部は、エヴァの何を知っているというのだろう?
 使徒の何を、知っているというのだろう?
 ……分からない。分からないことだらけだ。
「……とにかく、これでパイロットは決まったな。惣流・アスカ・ラングレーが、セ
カンドチルドレンだ。野球で言えば9回裏ツーアウトランナーなしからの逆転勝利。
 そして何よりも……エヴァの本当の力を引き出したのは、大きいな。
 ……今度こそ、回収作業だ。急げ」
 その声に、モニタに映っていたバギーやトレーラーが猛烈な勢いで戦場へ突入する。
彼らは彼らの仕事を始めていた。
 その映像から目を離すと、ミズーリ司令はどことなくすっきりした顔と声で加持に
話しかけた。
「さて、ミスター・カジ。日本へ行ってもらうぞ。アスカと、例の『アダム』ととも
にな」
「承知しております」
 一礼して、加持は司令室を辞することにした。これ以上加持がいても何もすること
がない。
 廊下へ出る扉をくぐりながら、加持は思わずにはいられなかった。
 アスカは、今の戦闘に勝利した。
 勝利というのは大抵甘美な味がするものだ。
 だが、今回はどうなんだろう。
 アスカはエヴァの力を……本当の力を、引きずり出した。その事は、彼女にとって
幸せなんだろうか。
 勝利は、麻薬に似ている。
 一つの勝利は、次のより大きな勝利への種にすぎない。永遠の螺旋階段。
 そのきざはしに足を踏み入れた事は、アスカにとって本当に幸せな事なのだろうか。
泳ぎ続けていないと死んでしまう鮫のように、アスカは永遠に戦い続けなければなら
ないのだろうか。
 ……司令室のドアをくぐりながら、加持は首を振った。
(まだ、この事を考えるのは早すぎるな)
 あるいは遅すぎたのかもしれない。
 全ては動きはじめた。今、この瞬間から。
 もう誰にも止められない。加持は勿論、張本人のアスカにすら、止めることのでき
ない強い流れ。
 どこまで流れてゆくのだろう。いつになったら止まるのだろう。
 気の遠くなるような時間をかけて、アスカは走るのだろうか。
 誰にも負けられないがゆえに、誰よりも孤独に走るのだろうか。
 一緒に走ることはできないが、せめて走り疲れて倒れた時の慰めぐらいには、なっ
てやれる。
 恐らくそれが、加持の持つ役割。アスカの望む、「加持さん」。
「……頑張れよ」
 今はここにいない一人の少女に向けて、加持はぽつりと言葉をかけてやった。




Twelfth Act へ続く ⇔ Tenth Actへ戻る
史上最大の作戦さんのシリアス書庫へ戻る
このページとこのページにリンクしている小説の無断転載、
及び無断のリンクを禁止します。