向日葵

〜もうひとりのセカンドチルドレン〜



■ Twelfth Act …… 向日葵 ■



Presented by 史上最大の作戦





 翌日。
「ん……っ!!」
 アスカは窓際で大きく伸びをした。
 朝の光は素通しのガラスよりも透明な色で、この部屋に飛び込んでくる。
「……ぷはぁっ!」
 溜めていた息を一気に吐く。
 心が軽くなっていた。重苦しい荷物から解放された気分。ミントを口にした時のよ
うに、吸う息が心地よい。
 昨日のうちに、アスカは「セカンドチルドレン」の辞令をもらっていた。今現在
「ファーストチルドレン」と「サードチルドレン」が既に前線に出ていることを考え
たら、「セカンド」という表現は妙なのかもしれないが、順番や数字など今のアスカ
にはどうでもいい事だ。
 ただ……
 少しアスカの表情が曇った。
「どうしてるかな、あいつ」
 ふと呟いてみる。
 アスカがこんな顔で「あいつ」と呼ぶ人間は、このNERVドイツ支部に一人しか
いない。
 昨日の事は、途中から我を忘れていた。
 だが、記憶までなくしたわけではない。アスカは自分が喋った言葉、アレックスの
声、全てを覚えていた。
 いっそ忘れていた方が幸せだったかもしれない。人間、物覚えがいい事が必ずしも
いいとは限らないのだ。
「落ち込んでんじゃないかなぁ……あたしもちょっと言い過ぎたし」
 言い過ぎたどころか、珍しくアスカが自分の発言を後悔するほど、昨日アレックス
に言った言葉は「言ってはいけない」事だった。
(あたしには、あんな事言える資格なんか、ないのにね……)
 やっぱり、アスカはアレックスと同じだ。
 アレックスは心の底で、父と母に認めてもらいたがっていた。
 アスカも同じ。今は遠い遠い世界にいる「ママ」に、誉めてもらいたかった。
 だから二人とも、エヴァに乗っていた。
 だから二人とも、戦っていた。
 だから二人とも、負けられなかった。
 アスカにアレックスの事を云々する資格はないのだ。
 顔は極力合わせたくない。向こうもそう思っているだろう。
「ま、ここにいるのも後少しだからね……」
 一週間後には、アスカは愛機のエヴァ弐号機とともに日本へ出立する。アレックス
は恐らくこのままドイツ支部に残るか、北米支部へ戻るのだろう。
 こちらが積極的に会おうと思わない限り、この先一生会うこともあるまい。
 それでいいんだと、思う。人との別れなんて、案外こういうもんだろう。
「え……と、シャツどこにやったかな……」
 日本行きに向けて、あれこれと準備しなければならない。そうでなくても女の子と
いうのは物が多いのだ。
 取りあえずパジャマから、普通のシャツとパンツに着替える。
「今のうちから荷造りしとかないとなぁ……」
 取りあえず服から荷造りするか。それとも教科書や辞書の類を先に片づけるか。い
や、日本へ行くのだから日本の「カンジ」とやらも勉強しなければならない。出発前
に少しでも勉強するなら、これは後回しかな……
 あれこれ考えていたアスカの思考は、いきなり中断を余儀なくされた。
 無遠慮なノックの音がしたのだ。
 ノックと言うより、これはもう「ドアを殴る音」に近い。
「……?」
 ぎょっとして振り返るアスカ。
「誰?」
「俺だ俺、俺だよ俺俺俺!!」
「……!」
 アスカの表情が硬くなった。
「アレッ……クス?」
「そうだよ開けてくれ!」
 時と場合が違えば、まるでアジトに駆け込んだ逃亡犯みたいな声である。
 数瞬躊躇い、そしてアスカは意を決してドアのスイッチを押した。
「のぉっとっとっと!!」
 いきなり開いたドアに、少年がよろけながら部屋に入ってくる。転倒する寸前で危
うくバランスを取り戻した。
「あ、あぶねぇ……」
「何か用?」
 表情にブラインドを下ろして、アスカは無遠慮な闖入者に声をかけた。
 振り向いたアレックスの顔は……
 いつもと変わりなかった。
 昨日の逆上ぶりが、まるで何かの冗談だったみたいな表情である。
 ただ、かなり興奮していた。こんな顔は、初めて見る。
「……どうかしたの?」
「おお、アスカアスカ、やったぞ!!」
「何が?」


「咲いたんだよ、向日葵が!!」


 風が揺れる。
 空気を巻き、木々の緑をなびかせ、風が揺れる。
 草原を透明な風が渡る。
 そしてその中を、風をかき分けながら走る人影が、二つ。
 流れる黄金色の髪。
 流れる栗色の長髪。
「ほら、アスカ!」
 やがて立ち止まった少年は、息を切らしている少女を振り返って、にっこりと笑っ
た。
「ちょ、ちょっと待って……」
 部屋から連れ出され、いきなりの全力疾走だ。アスカの肺は酸素を求めてぱくぱく
と動いている。
 大きな深呼吸を二度、三度、四度。
 そしてアスカは顔を上げて……
 ……
 ……
「……うわぁ!」
 思わず息を呑んでいた。
 そこには、向日葵が艶然と咲いていた。
 黄金。
 空に突き刺さる黄金。
 燃える太陽の色。
 地面にその煌きが降り落ちているのではないかと思わせるほど、あでやかな黄金色。
 向日葵は、太陽の方向に向かって首を動かし続ける植物である。
 だからだろうか。
 だから、太陽の欠片を拾い集めたような、こんな美しい……
「綺麗……」
 ため息が出ていた。
 思えば、向日葵という植物をアスカは初めて直接見るような気がする。
 写真やTVとはまるで違う。こんなに輝く黄金色は、印画紙でもデジタルディスク
でも再現不可能だ。
「やっと咲いてくれたよ……長かったなぁ」
 アレックスも静かに呟く。
 そして、無言が流れた。
 じっと、二人は空を見上げている。
 アスカはアスカの瞳の色で。
 アレックスはアレックスの瞳の色で。
 風は少し緩くなったかもしれない。
 どのくらい、何も話さずに見上げていただろう。
 向日葵から視線を動かさずに、アレックスはアスカに語りかけていた。
「アスカ……」
「何?」
「昨日のこと、お前覚えてるか?」
「……うん」
 少し躊躇って、アスカは頷いた。嘘をついても仕方がない。
「俺に何て言ったかも、全部?」
「うん、全部」
「そうか……」
 ほんのちょっと、アレックスは苦笑したかもしれない。
「いや〜、見事に言い当てられたよ。きいたね、あれは」
「……」
「お前の言った通りだよ。俺は多分、親父とお袋に認めてもらいたいから、エヴァに
乗ってるんだと思う」
「今でも、そう思う?」
 珍しくアスカから、こんな質問が出た。
「うん、多分今も」
 保留の文法を使いながら、アレックスの返答に躊躇いはなかった。
 人は……結局、父親と母親からは切り離せないのだ。
 アスカが今でも、母親の幻影を引きずっているのと同様に。
 アレックスが今でも、自分を棄てた両親に認めてもらいたがっているのと同様に。
 ……
(あっ)
 アスカは今、気がついた。
 アレックスがどうして向日葵を育てているのかを。
 彼は……親になりたかったのだ。
 向日葵の親になりたかったのだ。
 それは、自分の記憶の中に両親がいなかった事への代償行為。
 人並みの「親」というものを知らずに育ってきた少年は、「親」という言葉を神格
化、理想化する。
 その典型的な「親」の像を、向日葵を通して自分に投影していたのだ。
(そうだったんだ……)
 アレックス・カーレンという少年を、アスカは違った形で見るようになっていた。
彼はアスカが言った通り、強い人間なんかじゃない。心を殴ったらすぐにでも壊れて
しまいそうな、ガラス細工のように脆い人間だ。
 でも、弱くない人間なんて、いるだろうか?
 何も傷を背負わずに、心に弱点一つ持たない人間は、果たして「人間」と呼べるだ
ろうか。
 アレックスは、人間だ。それもこの上なく。感情のない人形なんかじゃない。
「……」
 アスカはいつの間にか、隣に立つ少年の横顔を見ていた。
 その事に気付いたのか、アレックスはちょっと視線を合わせて照れたように目を伏
せる。
「俺は……何も変わってほしくなかったんだ」
「?」
「親父にも、お袋にも。普通の両親でいてほしかっただけなんだ」
 あるいは、それは幼さゆえの身勝手だったかもしれない。
 変わり続ける物しか存在しない世の中で、変わらない物を願うというのは。
 しかし、それを知っていながらもなお、知っているからこそ、アレックスは望んだ
のだろう。
「ここ……ここは、ずっと夏だ」
「うん」
「ここなら、何も変わらないんじゃないかって……思ったんだ」
「……?」
 アレックスはふと、アスカの側から顔を隠した。


「永遠に夏のここなら、何も変わらずに永遠に咲き続けるんじゃないかって……そう
思ったから、俺はここで向日葵を育てていたんだと思う」


 小さな、ささやかな「永遠」を願っていた。
 それは冬の夕べの暖炉の前のような、小さいけれど温かな幸福。
 それさえも手に入れられなかった少年の、子供じみた、バカバカしい、非論理的な、
そして真剣な、想い。


 アレックス・カーレンは、アスカに顔を見せなかった。
 多分、泣いているんだろうと、アスカはぼんやり考えていた。
 あえて無理に泣き顔を見ようとは思わなかった。


 風が渡る。
 向日葵は咲き続ける。


 そして、一週間の時が流れた。


「……うわ〜、おっきな船だなぁ」
 港に着くなりアレックスが発した第一声が、それだった。
「あんたバカぁ?エヴァっていう超軍事機密、それにあたしというかけがえのない人
材を運ぶんだから、一個艦隊でも足りないくらいよ、もう!」
 見送りに来たアレックスを出迎えるアスカが、憤懣やるかたなしといった風情で苦
情を並べる。
「あはは、違いねぇ」
 屈託なく受け流して、アレックスはアスカの格好を上から下までじろじろと観察し
た。
「な……何よ」
「お前、その服……」
「あら、似合う?」
 お気に入りのレモンイエローのワンピースだ。服は事前にDHLを使って日本へ送
っていたから、手持ちの荷物にはあまり服がない。道中の洗濯をどうするかが、今の
アスカの最大の悩みの種だった。
 誉め言葉でも出るかと思いきや、アレックスはえらく真剣な顔で言ってのけた。
「お前、その格好で甲板出ない方がいいと思うぞ」
「何でよ」
「風がきついぞ、航海中の船って奴ぁ」
「……うっさいわね、もう!」
 最後の最後までからかいに来たのかと、一発殴っちゃろかと右手に力を入れたアス
カだが、ふと視線を転じて表情を変えた。
「……あら?あれ、ひょっとして四号機じゃない?」
 だだっ広い軍港である。今アスカ達が立っている桟橋に係留している空母を中心に、
計6隻の艦隊が日本へ向かう。
 そこから数百メートル離れた別の桟橋にも、巨大空母が1隻入っていたのだ。
 甲板には巨大な布の塊。サイズ的にも形的にも、エヴァ以外にありえない。
 問われたアレックスは、少し笑った。
「ん、ああ。四号機だ」
「何で?日本にでも行くの?」
 それくらいの冗談が出るくらい、アスカにはようやく余裕が戻ってきていた。
 アレックスの微笑に少し苦笑が混じる。
「いや、逆方向」
「逆?」
「大西洋を横断して、アメリカに戻るんだよ、アスカ」
 と言ったのは、アレックスではなかった。
「あ……司令」
 少しアスカが表情を硬くする。
 この暑いのにぴったりと制服を着こなして、ゆっくりとミズーリ司令がこちらへ歩
いてきていた。
 アスカはそっと、目の前のアレックスを観察した。
 アレックスも……アスカと似たような表情だ。
「俺もドイツを離れるんだよ、アスカ」
「へぇ……北米支部に戻るの?」
「ああ。エヴァ四号機も、ハインツ部長も、リンネ先生も、……親父も、ね」
 「親父」という言葉を使う時、アレックスの口調が少しよどんだ。
 不謹慎にも、アスカは少し笑いたくなった。
(ふふっ、結構かわいいところあるじゃない、こいつも)
 単なるぼんやりしてひねくれた少年だと思っていたが、よく観察してみると所々で
感情の一端を覗かせたりして、随分変わったと感じる。
 そう、人は変わり続ける。
 アレックスは「変わらない」事を望んだけれど、それでも人は変わり続ける。
 変わらない事を願うアレックス自身を含めて。
「北米支部で、何やるの?」
「そうだなぁ……どうしようかなぁ……」
 何も考えていなかったのか、アレックスは困ったように宙を見上げる。
「……そうだ」
 ふと何かを思い付いたらしい。アレックスは自分の「父親」を振り返った。
「あの……司令」
「何かね?」
 まだアレックスは、面と向かって「親父」と呼べないらしい。
 それでいいんだと思う。
 そうやって少しずつ、少しずつでも近づけばいいんだと思う。
「俺の母さんの死因……ご存知なんでしょう?」
「……」
 アスカの頬に残っていた笑みの翳が消えた。
 ミズーリ司令は、相変わらず表情を変えない。
 変えないまま、淡々と告げた。
「……交通事故だった、らしい」
「そう、ですか」
 アレックスも父に倣ったわけでもあるまいが、表情を一ミリも変化させなかった。
「なら、最初にやる事は決まってるな」
「何やるの?」
 アスカの問いに、少年はにっこり笑った。
 それは、峰を駆け下りる風の色に似ていた。透明で、涼やか。
「墓参り。話はそれからだな」
 生者は向こうから近づいてくれる可能性があるが、死者はこちらから近づかないと、
距離は永遠に縮まらない。
 アスカは悟っていた。
 アレックスは、今。
 母親を、赦したんだと。
 そうさせたのが自分の言葉だという思いは、アスカにはなかった。
 全ては本人が判断し、決めた事だ。


 出港の時間が迫っていた。
「お〜いアスカぁ、早く来ないと置いてくぞ〜」
 タラップの上の方から、加持がアスカに声をかける。
「あ、いっけな〜い。今行くわね〜!!」
 アスカも慌てて踵を返そうとする。
 返そうとして、踏みとどまった。
 もう一度少年の顔を正面から見据える。
「……まだ決着がついてるわけじゃないからね」
「?」
 そのまま船に乗り込むものとばかり思っていたアレックスが、きょとんとした顔で
アスカの顔を見る。
「何が?」
「バッカねぇ、あんたとあたしの勝負よ」
「ああ……って、お前まだこだわってんのかよ!?」
「当たり前よ、最終テストでは最後に勝てたからよかったようなもんの、前半はやら
れっ放しだったからね。このまま何も決着つけなかったら、惣流・アスカ・ラングレ
ー、一生の汚点だわ」
「俺の負けでいいと思うけどなぁ」
「だ〜め!!これはあたしの気持ちの問題なんだから」
 アスカは少年の鼻先に指を突きつけた。
「分かってるわね?絶対に日本に来なさいよ。あんたとの勝負は、実戦の場できちん
と決着つけるからね」
「はぁ、実戦で」
「そ。そこであんたは、一生かかっても超えられない実力差というものを思い知るん
だから!分かったわね!?」
 呆気にとられていた風のアレックスだったが、やがてその顔に笑みが広がった。
 ちょっと鋭い、活気に満ちた笑いだった。
 アスカが初めて見る表情だった。
「……分かった。俺も必ず日本に行く。俺の方こそ、決着つけなけりゃならんからな」
 多分、ここへ来る以前のアレックスは、こんな笑い方をしていたんだろう。
 少年らしく、元気で、明るくて。
 のんびりした微笑より、よっぽどいい。
「……よし!」
 にやりと笑い返して、アスカは今度こそタラップを駆け上がった。
 心に翼が生えているのだろうか、その足取りは宙を踏むように軽やかだ。
 上り切って艇内に入ろうとするその瞬間、アレックスの声が聞こえた。


「んじゃな〜、アスカ!!俺が行くまで、誰にも負けるんじゃないぞ!!」


 半身を外に出した格好のアスカは、「あかんべぇ」を一つ見せて。
 そして負けないくらいの音量で叫び返した。


「あんたバカぁ!?あたしを誰だと思ってんの!?」


 ……そして、再び時は流れる。




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