向日葵

〜もうひとりのセカンドチルドレン〜



■ First Act …… 星を砕く者よ ■



Presented by 史上最大の作戦





 びぃん!
 拳と拳がぶつかった瞬間、金属を力一杯叩き合わせたような、背筋が思わず寒くな
るような音がした。
 室温での音速は秒速340メートル。
 水の中での音波の伝播速度は、秒速1000メートルを超えるという。
 だからだろうか、いつも聞いている音さえも、ひどく直裁的にストレートに、身体
中を振動させるような気がする。
(……ここなら、どうなのかな?)
 そんなことを考えてみる。
 水とはちょっと違う。黄色く着彩された、絵の具を薄く溶いたようなこの液体。
 血のような不愉快な匂いがするのに、妙に落ち着くこの液体。
 ……LCLの中なら、どうなんだろう。
 音はどんな伝わり方をするんだろう。
 やはり何かに阻まれたような、遠い遠い音になるんだろうか。


 惣流・アスカ・ラングレーは、状況もわきまえずにそんな事を考えていた。


「パイロット02のシンクロ値、ハーモニクスともに異常なし」
「A10神経、依然として変調ありません」
「パイロット04のシンクロ値、78%。0.5ポイントの低下です……チェック。正
常値に戻りました」
「エヴァ弐号機、LCLの温度が0.04度上昇。誤差の範囲内で修正」
「四号機、外部拘束具の亀裂は素体に及んでいません。戦闘続行可能です」
 オペレーターの言葉の隙間に、モニタの立てる電子音が混ざる。有機質の声と無機
質の音は、聞いていて妙に不協和音を感じる。
 そこは、広々とした司令室だった。十数人のオペレーターがずらりと並び、キーボ
ードを叩きつつ逐一状況をモニタリングしている。そこから聞こえてくる報告は的確
で、一分の隙もない。
「……悪くないな」
 と呟いたのは、オペレーターではない。彼らの後方十メートルほどの場所にしつら
えられている、一段高くなった場所。
 そこに一組の指揮卓とアームチェア。
 まるで椅子と一体化しているかのように座り込んでいたのは、年の頃40代とおぼ
しき男だった。
 高く尖った鷲鼻、アングロサクソン特有の空のような瞳、そして幾分白髪が混じっ
ている金髪。
「悪くないでは済まされんでしょう。『使徒』の攻勢は日を追うごとに激しくなって
いる。今は一人でも、即実戦投入できるパイロットが必要なんですよ。日本からの報
告は読まれたはずです……よね?」
 と答えたのは、これはどこからどう見てもアジア系の顔立ちの男である。眠そうな
両目以外にはあまり特徴のない顔だが、首の後ろで無造作に束ねた髪と、顎から伸び
ている無精髭がどことなくユーモラスな印象を与える。
 白人の男は少しだけ横目で、自分の傍らに立っている男の顔を見た。
「勿論読んださ、ミスター・カジ。未だに少々信じられんがね」
「それは『使徒』に対してですか、それとも……」
「両方、だよ。『使徒』のデータも信じ難いが、それ以上に『エヴァ』の戦闘履歴は
瞠目に値する。我々は本当にエヴァを、そして科学をコントロールできているのかと、
自らに問い直したくなるほどにね」
「……」
 「カジ」と呼ばれた男は、小さく肩をすくめて首を振る。気障なように見えるが、
この男がやると不思議と嫌みめいたものを感じさせない。
「老人達も口に出しては言わないが、相当焦っていると見える。あの『人類補完計画』
も、再侵攻を開始した使徒のおかげで進捗が鈍っているからな」
「17次の報告書は読みました。荒唐無稽だとは思いませんが、実現化するにはいさ
さか時期尚早というか、周到な準備が欠けているように思われます」
「同感だ。碇司令にもその事は具申したがな」
「あの人も何を考えているのか、いささか分かりにくい所もありますからね」
「まあ、彼は彼で大変だろう。使徒が喉元に刃を突きつけている状況で、補完計画な
ど進めようがないからな」
「『ゼーレ』のお偉方は楽でいいですよ、椅子に座ってロジックをひねくりまわすだ
けで済むんですから」
 溜息と苦笑の混ざり合ったものを、西洋人の男は見せた。
「だから前線の我々が苦労を背負い込むことになる。二週間以内にセカンドチルドレ
ンとエヴァを、『実戦投入できる』状態で日本に届けろだと?」
「そうです。遅滞は許されないそうです」
「本当に、気楽なもんだ……」
 白人の男は大きく、今度は本物の溜息をついた。
 傍らに立つ日本人……加持リョウジは、その言葉も溜息も聞かなかった事にした。
人間長生きがしたかったら、視覚と聴覚にふるいを設けるのが一番だ。
 聞かなかった事にして、そして訊ねた。
「……で、状況はいかがでしょうか?本部からの要請に応えられそうですか?」
 溜息の顔をしまいこむと、西洋人の男は今度は不敵な笑いを見せた。
「問題ないよ。その点は十二分だ。マルドゥック機関はいい仕事をした。いや、しす
ぎた。我々が困るほどにな」
「?」
 怪訝そうな顔を見せる加持。
「日本はファースト、そしてサードチルドレン。我々にはセカンドチルドレンがいる。
それにしても『チルドレン』とはよく言ったものだよ」
「ほう?」
 片方の眉だけを上げて、加持は司令官の顔を見た。
 視界に映ったのは、端正な横顔。モニタを見上げた目を動かさない。
「それはどういう事でしょうか、ミズーリ司令?」
 その言葉に、白人の男はたった一言をもって答えた。


「我々には、セカンドチルドレンが二人いる」


 モニタには、巨大な影が投影されていた。
 暗黒の森……シュヴァルツヴァルトの傍にある広大な敷地を利用して作られた、N
ERVドイツ支部。その一角には、広い敷地のさらに半分以上を使った壮大な平原が
ある。
 通称「オリュンポスの平野」と、そこに勤務する者達は呼称している。巨大なアテ
ナイの神々が天を貫く槍を手にし、空を切り裂く稲妻をもって闘った神話の世界を思
わせる、そんな場所だったから。
 確かに、今ここに立つ者がいたならば、期せずしてその想像上の風景を思い浮かべ
るかもしれない。
 天空にそびえ立つようにして、二つの巨大な、巨大すぎる人影が屹立していたのだ。
 一人は、赤。
 全身を血と同じ色に染めていながらも、そこにはなぜか毒々しい色合いはない。
「けばけばしい」というよりも先に「明るい」という印象の方が来る。
 ……人?
 いや、違う。
 こんな巨大な、身の丈数十メートルはあろうかという人間が、この世に存在するは
ずがない。
 しかも、二人も。
 赤い巨人には、腕の部分に「02」という塗装がなされている。シルエットだけを
見ると、肩に鎧を装着したサムライのようにさえ見える。
 そして、その赤い巨人が相対しているのは。
 鮮烈なエメラルドグリーン。
 全身を緑玉の、地中海のような色に染め上げた巨人。
 深い、森のような緑とは違う。それ自体が輝かんばかりに煌めく、見る者に眼を閉
じても残像を与えてしまいそうな、宝石の色。
 あまりにも美しい。
 そしてその腕には、割れた装甲板のヒビとともに「04」というナンバーが打たれ
ていた。


 アスカは、大きく舌打ちをしようとした。だが空気と擦れて鳴るはずの舌は、口の
中まで満たしたどこかドロリとした液体に阻まれ、期待していた音を発しない。
 その事が、さらにアスカの神経に障った。
「しつっこいわねぇ!」
 イライラした風にひとりごちると、インダクションレバーを一発殴りつける。
 そこ……エントリープラグ内では、周囲の景色を360度全天で望むことができる。
アスカの搭乗する人型汎用最終決戦兵器「エヴァンゲリオン弐号機」の頭部に備え付
けてある四つの受光器、そして巨大な躰のどこかにある後部用カメラが、外部の情報
を逐一洩らさずに伝えてくれるのだ。
 そしてその前方の視界いっぱいに、「エヴァンゲリオン四号機」が、自分とほぼ同
じシルエットを見せて佇んでいた。
 塗装以外の大まかな特徴は、アスカの弐号機と大差ない。ただ頭部のモールドが若
干違う。
 前へ前へと突き出した顔には、三つの「眼」があったのだ。完全なシンメトリーを
見せる頭部には、中央にある縦長の「第三の眼」のせいか、ひどく鋭角的で戦闘的な
印象を与える。
「……気に入らないなぁ」
 今のアスカには、その顔さえも神経に障っていた。
 ここから遠く離れた場所にある、日本。そこで現在稼働している「エヴァ零号機」
と「エヴァ初号機」の写真を、何かの拍子に見たことがあった。パイロットの顔も名
前も知らないのだが。
 今目の前にある四号機は、どちらかと言うと「初号機」の顔に似ている。もっとも
あちらの場合は紫で、この四号機はエメラルドグリーンと、一見したところでは全然
印象は違うのだが。
 鋭角的な頭部のデザインが、共通しているのだろうか。
 まあ、どうでもいいことである。
 そしてその四号機の両腕は、半壊していた。
 装甲板……「拘束具」と、技術者達はなぜか呼んでいた……はボロボロにひび割れ、
妙に生々しい、茶色っぽい内部が伺える。
 他の誰でもない、そうしたのはアスカだった。
「あいつもいい加減諦めりゃいいのに。所詮天才のあたしには勝てないんだから!」
 可愛らしい唇を、思わず不満の形に尖らせる。
 最初は、簡単だと思った。
 たかが演習、模擬戦にすぎない。幼少の頃からエヴァのパイロットとして選ばれ、
ここNERVドイツ支部でエリート教育を受けてきた自分にとっては、何ということ
もないただの「お遊び」だ。そのつもりだった。
 だが、その模擬戦は既に15分を超えていた。現状でのエヴァの内蔵電源は5分弱
しかもたないから、機体の背中から伸びているアンビリカルケーブルがなかったら既
に活動停止に追い込まれているところだ。
 相手も条件は同じとは言え、それだけでもアスカのプライドに傷を付けるには充分
だった。
 爪を噛みたくなる衝動と懸命に戦う。噛めば負けを認めたも同然だ。
 相手の両腕の拘束具を破壊したのは、アスカの天才ならではである。両拳を握りし
めて叩きつけようとした四号機の両腕を、カウンターで外側から叩き潰したのだ。も
う一歩踏み込んでいれば、折ることもできたかもしれない。
 しかしそれは、成功しなければ全くの机上の空論だ。相手は内部に何の損傷もなく、
そして相手は依然として諦めようとしない。
 エヴァに乗ることを「シンクロする」と言う。これは文字どおりの意味である。操
縦者の意志は完璧にエヴァの動きと同調する。だが同時に、エヴァが受けたダメージ、
痛みは逆に全てパイロットに伝わるのだ。
 こうしていても、エヴァの足の裏にある岩だとか地面だとかの感触がアスカの足に
も伝わってくるようで、いささか居心地が悪い。土踏まずのあたりがムズムズする。
 ぴぴっ。
 小さな電子音がした。無線の呼び出しだ。
 だがその音は、お世辞にも丁重とは言いかねる声に迎え入れられた。
「うっさいわね!」
 平静でいる時でさえ耳障りな音である。今のアスカには火に油を注ぐ音でしかなか
った。
 だがその音は電話のベルと同じだ。放っておけばいつまでたっても鳴り続ける。
 諦めたアスカは、頭の隅で回線を開く命令を「考えた」。
 脳内にあるA10神経と呼ばれる部分に接続されているエヴァのシステムは、脳波
だけで操縦全てをコントロールできる。そうでもしなければ、この生体と機械という
複雑なバランスの上に成立しているエヴァンゲリオンを動かすことなど神業に近い。
 視界の隅にウィンドウが開いた。エントリープラグ壁面のモニタに映っているのだ
が、視差を利用してあるため立体的に浮き出たように見える。
 小さなウィンドウの中には、一人の少年がいた。
 アスカと同年輩と思われる、まだ幼い顔つきをした少年である。だがどこかぼんや
りした表情のため、実際の歳よりはおっさん臭く見える。「大人っぽい」ではない。
「おっさん臭い」のである。顔立ちは「美少年」の部類に入るのだが、雰囲気がやた
らと落ち着いているのだ。
 ブルネットのアスカから見れば羨ましくもさえ思える、透明なブロンド。顔の彫り
は深い方だ。あと4、5年も経てば女の方が放っておかないだろう。
 服装は……緑。
 つまりアスカと同じ、色だけ違う、煌めくエメラルド色のプラグスーツ。
 そして、それは彼の瞳の色と同じだった。
 どこか眠そうな眼は、晴れ上がった空の下の海と同じ色。
 透き通るような白い肌にぽつんと浮かぶ緑玉色の瞳。雪の中に埋もれた宝石のよう
な。
「お〜いアスカ、そろそろ終わらないかぁ?」
 泰平然としたその言葉を聞いた瞬間、アスカの神経のどこかが、音を立てて切れた
ような気がした。
 エントリープラグ内のどこかにあるマイクに向かって、燃え上がった声の塊をぶつ
ける。
「うるっさい!!」
 頭の中が灼熱する。
(こんな奴に負けてたまるか!)
(ううん、他の誰にもあたしは負けちゃ駄目なんだ!)
 頬の筋肉がピクピクと震える。
 その動きが見えているのかいないのか、モニタの向こうの少年はいたってのんびり
としたものだ。
「……って言ってもさぁ、もう模擬戦始めて15分以上経ってるしぃ、俺両腕壊され
てるしぃ、だから俺今腕痛いしぃ、その上お腹すいたしぃ。……あ」
 と言うからどうしたのかと思えば、
「今日の昼飯、何だったかなぁ……」
 と来た。
「知るか!」
「なぁアスカ、お前の勝ちでいいからさぁ、終わりにしよ、な。俺の両手の装甲板壊
したんだ、充分じゃないか。はい、終わり終わり」
『こら、戦闘中の私語は禁止されてるわよ!』
 女性オペレーターの声が間に割って入る。だがその声は片方はのほほんと、片方は

激怒でもって、丁重に迎えられた。
「え〜、だってさぁ」
「うるさい!」
『……』
 少年の声に呆れたのか、アスカの声に気圧されたのか、オペレーターはそれ以上言
葉を発さない。その事だけがアスカの気持ちを若干やわらげた。
 だが焼け石に水だ。
「もう、たくさんよ!アレックス、あんたを倒して終わりにする!」
 真紅のプラグスーツを身にまとった少女に自分の名前を呼ばれた少年は、心底嫌そ
うな顔を見せた。インタフェースの埋まった金髪を二三度かく。
「いや〜、終わらせるという意見には大賛成なんだけどさぁ、痛いのはやだなぁ」
「痛いの痛くないの言ってる場合か!」
 本格的にアスカの神経が灼き切れた。
 本能と闘争心のおもむくまま、暴走するに任せたまま、弐号機に突進を命令する。
 弾かれる思考に導かれるように、真紅のエヴァは地響きをたてて動いた。両膝には
ショックアブゾーバーが組み込まれているのだが、それでもすさまじい振動がアスカ
の全身を揺らす。
 ぎよん、ぎよん。
 エヴァの「筋肉」が動くたびに、そんなきしみ声のような音が響いた。
 プログナイフの装着を命ずる。弐号機の肩に取り付けられたケースの蓋が開き、中
からカッターナイフのような刃物が突き出してきた。手に取るとスイッチが入って、
高速で振動するのが伝わってくる。
 その震えよりも、刃物を手にした時に感じる昂揚感、背筋を興奮の痺れが駆け上が
る感触が、アスカの心を震わせた。
 もはやこれは模擬戦ではない、戦闘だ。アスカは自分にそう言い聞かせた。
 相手を戦闘不能にするまで、やめるわけにはいかない。
(たとえ……あいつを殺すことになっても)
 そうならないのは知っている。エヴァ内部が世界で一番安全なシェルターなのは、
パイロット自身が一番理解している。恐らく核攻撃にすら耐えうるのではないだろう
か。
 例え同じエヴァが攻撃したとて、中に乗る人間はキズ一つつかないだろう。
 だが……いや、安全だと分かっているからこそ……アスカはアレックスに殺意を抱
いていた。どんなに攻撃しても耐えうるエヴァ。その姿は同時に、何を言われても怒
らない、いつもニコニコしている四号機のパイロットに重なる。
 どんなに手を伸ばしても、血を吐くほどの叫びをあげても、届かない。
 腸が煮えくり返る。
 エントリープラグ内のモニタに映る四号機の姿が、みるみる大写しになる。
 と。
 殴られたようなショックとともに、弐号機の足が止まった。
「……つっ!!」
 勢いあまってつんのめったアスカの目の前を、赤い火花が飛び散る。
 いや、アスカの目の前ではない。弐号機の目の前。
 赤い赤い、まるで血のように赤い力。
 それが、弐号機の凄まじい質量を止めてのけたのだ。
「……A.T.フィールドか!」
 瞬時にアスカは判断していた。
 ABSOLUTE.TERROR.FIELD。絶対領域。エヴァンゲリオンの持つ、強力な武器の一つ。
 作動原理は、全く明らかにされていない。少なくとも末端のパイロットには。
 そしてこれこそが、「使徒」が通常の兵器で倒せない唯一の理由だった。
 その強大なバリアの向こうに立つ四号機は、微動だにしない。
 先ほどの激突の際に唇の端を少し切ったのだろうか、LCLとは違った血の味がア
スカの口の中に広がった。
 徐々に、その味にアドレナリンが混じる。
「A.T.フィールドには……A.T.フィールドを!」
 アスカの叫びとともに。
 弐号機の真紅のボディから、それに優るとも劣らぬほどの真紅の光が迸った。
「フィールド全開!位相空間を中和!!」
 二つのA.T.フィールドがぶつかり、火花を散らし、そして……
 両者が突然、消えた。
 これが「位相空間の中和」である。強力な力場には、同じ大きさの強力な力場を当
てる。
 対消滅、である。
 弐号機と四号機を阻むものは、今や何一つ存在しない。
「これで終わりよ、アレックス!!」
 人間で言うところの腹部、装甲板と装甲板の隙間を、アスカは狙った。プログナイ
フをそこへ貫き通せば、恐らく相手は戦闘不能になる。
 こうなったら、とことんやるまでだ。
 目の醒めるような緑色をしたエヴァ四号機は、依然として動く気配を見せない。少
しだけ前傾姿勢で、じっとアスカの動きを見ているようだ。
 その冷静さが、余計にアスカの神経を逆なでにした。
「このやろぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 大声で怒鳴りながら、プログナイフを突き立てる。
 いや、突き立てようとした。
(え……?)
 声に出す余裕もなかった。
 刃先が装甲板の隙間に届くその直前、エヴァ四号機の姿は突然霞んだのだ。
(……右!)
 さすがはアスカである、咄嗟に相手の動きを読んだ。目に見えたのではない。この
あたりの判断は既に「カン」の領域に入る。
 その「カン」の命ずるままに、ナイフを右へなぐ。空気が切り裂かれる音が聞こえ
た。急に方向の転換を命ぜられたエヴァの筋肉が、悲鳴と抗議の声を出す。
 右腕が猛烈な勢いで回り……そして止まった。
 腕の可動範囲は正面から120度。腰のひねりを加えても150度が関の山だ。
 四号機の動きは、それを上回っていたのだ。
 腰の当たりに何かが巻かれる感触を、アスカは認識した。
「……!」
 赤いエヴァ弐号機の腰に、鮮烈なエメラルドグリーンの両腕が巻かれていたのだ。
 ジッ。
 回線が小さなハム音を立てた。
「……終わりにしよ」
 ポツリと呟く少年の声。
 静かで、茫洋として。
 どことなく寂しげな声だった。
「……あっ!」
 アスカの声と身体が、宙に浮く。
 浮遊感。
 視界が猛烈な勢いで、下から上へと流れる。
 一瞬、空が見えた。
 乾いた空気を、少し冷たそうな太陽が静かに灼いている。瞬間的に見えた、静かな
風景。
 次の瞬間、アスカの視界と意識は暗転した。


 「オリュンポスの平野」から数十キロを離れたこの司令部の床さえ、小さく振動す
るのが分かった。
「……ほう」
 加持は、両眉を軽く見張った。
「バックドロップか……無茶するなぁ。下手すれば自滅だぞ」
 モニタには、緑色の巨人が屹立していた。
 その足元に倒れ伏す真紅の巨人は、微動だにしない。恐らく中にいるアスカはショ
ックで気絶しているのだろう。
「弐号機、シンクロ切断!パイロットの意識、ありません!」
「脈拍、呼吸、血圧ともに異常なし!パイロット02の生命に別状なし」
 オペレーターの声が飛び交う。
「回収急げ。模擬戦は現時刻をもって終了だ」
 司令の声に、何台かの専用車が飛び出すのが見えた。
「アスカの相手をしていたのは……?」
 傍らに座っているミズーリ司令に、加持は質問を投げかけた。
「彼が、もう一人のセカンドチルドレン。アレックス・カーレンだ」
「ああ、彼ですか。北米支部から来ている。確かアスカと同じ……」
「ああ、14歳だ。どうしてエヴァは、あの年齢しか受け入れんのかな」
「さて」
 この当時の加持には、その理由について漠然とした仮説しか持っていなかった。
 本当の「エヴァの正体」を知るに至るには、まだ少しの時間が必要である。
「優秀な人材の……ようですな」
「ああ、純粋なパワーだとかスピード、シンクロ率といった面ではアスカに劣るが、
14歳とは思えない冷静さと判断力がある」
 と言ってから、ミズーリ司令は口元を不愉快そうに歪めた。
 たった14歳の少年をも「駒」として扱ってしまう自分の軍人根性に、一瞬嫌気が
さしたのかもしれない。
 加持はモニタに視線を向け、その表情の動きは見なかったことにしていた。
 モニタの無機質な文字を眺めるともなく眺めながら、質問する。
「そしてどちらかがセカンドチルドレンとして選ばれる……ですか」
「今までの模擬戦は46回。今の勝負でアスカの24勝22敗だ。ただしここ10戦
の成績を見ると、アレックスの7勝3敗」
「伸びているわけですか」
「飛躍的にな。現時点では、アスカより上と見ていいだろう」
「それは、判断に苦しみますな」
「日本からは『即戦力になるエヴァとチルドレンを』と言われている。昔から安定し
た実力を発揮しているアスカと、最近になってとみに伸びているアレックス。我々に
はチルドレンのサンプルが十数人いるが、恐らくあの二人が最終候補だ」
「ゼーレからは特に何も?」
「ああ、最終決定権は私に委ねられている。いや、『押しつけられている』のかな」
「とかく判断は他人まかせのご老体ばかりですから」
 小さく鼻で、二人は笑ってみせた。
 モニタでは、既に動きを止めたエヴァ四号機のエントリープラグが大写しになって
いる。
 それを見つめたまま、ミズーリ司令はポツリと呟いた。
「エヴァか……」
「ああいうところを見ると、我々はあの兵器を完全なコントロール下に置いていると
いう気がしますな」
「錯覚だろう、恐らくは。我々はエヴァを操っているようでいて、その実操り切れて
いない。操っていると思い込んでいるだけだ」
「科学は万能ではないと?」
「その通りだ。人間は文明と科学を手に入れることによって、多少両手両脚が伸びた。
だが、その程度だ。森羅万象を支配下に置くなど、人間の傲慢にすぎん」
「いつかは天罰が下ると、いうことですか」
「既に下っておるよ。セカンドインパクトという形で。あれはバベルの塔に落ちた稲
妻だ」
 天を目指そうとして言葉を失った神話上の人々の話を、ミズーリ司令は少しだけこ
ぼした。意外とロマンチストなのかもしれない。
「しかし我々は、その天罰から何も学ばなかった。だから使徒は攻めてくる」
「哲学的ですなぁ」
 案外本気で感心しているのかもしれない、加持の口調である。
「疲れてるだけだ」
 ふんと鼻息を洩らして、司令は立ち上がった。
「パイロット02の身体的及び精神的ダメージについて、早急に報告のこと。次回シン
クロテストは予定通りに今週末、5日の11:00から行う」
「はっ!」
 オペレータ達が敬礼する。
「さて、ミスター・カジ。忘れないうちに君に渡しておこうか」
「?」
「碇司令から聞いているだろう。例の『アダム』だ。あのサンプルを、渡しておこう
「ああ、あれですか」
 思い出したような顔の加持に、司令は少し笑った。
「呑気なものだ。あれこそが最初の人類、現在の我々の礎だというのにな」
「私はあまり信じておりませんから」
「私は事実だと思う。あれを見るたびに、やはり人類はセカンドインパクトから何も
学ばなかった事を思い知らされるよ」
「……」
「自分自身に下された天罰を天罰とも思わずに、その事さえも科学の俎上に置いてい
る。人間はどこまで傲慢になれるのか、その証左だろうよ。正直、私はあれを持って
いるのが少々重荷だ」
「ご安心を。必ず、日本まで無事送り届けます」
「頼む」
 と言うと、ミズーリ司令は少しだけ声を低めた。
 元々二人だけにしか聞こえないほどの音量で喋っていたのだが、それさえも恐れる
ように。
 加持の耳元に口を寄せる。
 聞こえてきた音声は、加持の耳が持つ可聴範囲ギリギリだった。
「分かっているな。君の任務の第一は、エヴァとセカンドチルドレンを日本に送り届
ける事ではない。あの『アダム』、あのサンプルにキズ一つつけずに碇司令のもとへ
届ける事が最重要任務だ。忘れてはいまいな」
 危険な眼の色をしていた。
 表情を隠して、加持はそれに答える。
「……承知いたしております」
「その為なら、エヴァの一台くらい、破棄してもかまわん。そのくらいの価値がある
代物なのだよ、『アダム』は」
「はい」
 今度は、ミズーリ司令は表情を変えなかった。


Second Act へ続く
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