次元暦 895.109。TERA-001。ショッピングモールと言っても、戦乱も同然の混乱の後である。流通が滞ったままなので、まだそれほど豊富に商品があるわけではない。が、 「でも休日のショッピングは女の子の宿命よ!」 とサライユは宣う。 「たとえ買えるものがなくったって、一軒一軒冷やかして回るのが女の子の勤めってもんなのよ!」 …………ちょっと違うような気もするが。 「あ、ごめん。私、約束があるんだ」 真っ先にハノイユが異議を唱える。まさしくお約束である。当然、考えなしに言ったものだから、全員から突っ込まれたが、それは書かぬが武士の情けであろう。 「あは☆ ルナ、先に行くねぇ」 大体どこに行くのかも決めてないのに、なぜ「先に行く」になるのだ。と突っ込む暇も与えず、姿を消すルナイユ。 「あ、ちょっと調べものがあるから」 エマイユの優雅な微笑みにサライユが逆らえるであろうか。いや逆らえない。ということで、残ったのは3人になってしまった。 「ま、予想できた結果ね」 「…………どういう意味?」 心なしかマナイユの視線が怖い。 「あはははは☆ じゃ、どこ行く?」 「サライユ…………」 「や、やぁねぇ。アミアが呆れてるわよ。ね?」 「え、え? まあ…………」 「あら? そういえば、アミアは出かけないの?」 「う、うん」 「喧嘩でもした?」 「だ、誰と!?」 「今更そんなこと言う?」 「…………だって鷹神君、用事があるって言ってたんだもん……」 と、アミアはいじけて見せたが、二人が無視したことは言うまでもない。 結局、休日に大人しく部屋に引っ込んでるような連中ではなく、件のショッピングモールを散々冷やかして回った後、ちょっと一休みして、アイスクリームなどなめているのである。 「ウィンドウショッピングと言って欲しいわね」 失礼しました。 「で、これからどうする?」 「そうねえ、ワンパターンだけど…………」 とサライユが綿密にたてた計画を弁じようとして、ふと口をつぐんだ。あらぬ方向を見てぽかんとしている。 「ねえ、サライユ?」 返事はない。返事はないが、やおらにんまり笑うと、見ている方向を指さした。 「あれ見てよ」 「あれ?」 「あれあれ」 サライユの指さした先に視線を移すと、 「あれ? ルナイユじゃない」 「本当だ。何してんのかしら?」 ルナイユがぽつねんと立っている。 「こうして見ると、やっぱり可愛らしいわね」 「そーゆー問題じゃなくて」 「こっちに気がつかないのかしら?」 「無理無理。だって…………」 さわやか…………かどうかはさておいて、笑顔を見せてルナイユに駆け寄る男がひとり。 「やぁねぇ、あんなにぴょんぴょん跳ねて」 「あ、腕を絡めた」 「…………」 「うわぁ、あぁんなにひっついてる」 「今にもとろけそう〜って顔ね」 「…………?」 「ちょっと……まさか」 「あ! キスした! だいた〜ん!」 「あの男の子…………」 「うんうん。どこの子かしら?」 「まあまあハンサムだけど、でもこんなとこでキスするもんねぇ」 「私、知ってる…………」 「「え!?」」 思わずサライユとルナイユがアミアの顔をのぞき込む。 「「誰よ!?」」 「ほら、例の立木君…………」 「「立木!? ひょっとして、あの立木君!!? 橘学園の!?」」 「そ、そんな二人してハモんなくても…………」 「「どうなのっ!?」」 「そ、そうよ…………」 「な、なんてこと!」 「これは見過ごせないわね」 「ど、どうしたの?」 「あのね、アミア。あなた知らないの?」 「何が?」 「橘学園の立木 竜。ご飯を食べない日はあっても、女を口説かない日はないという」 「そ、そうなの?」 「そうよ。その立木君を……」 「ルナがどう手玉に取るか、すっごく興味があるじゃない!」 思いっきりこけてしまったアミアだったが、サライユとマナイユの二人は目もくれずに立ち上がると、後を付け始めた。 「ちょ、ちょっと。どこ行くの?」 「あの二人の後をつけるに決まってるでしょ!」 「そ、それって……」 「アミアも早くなさい!」 「は、はぁ…………」 「お兄ちゃん……唯、幸せだよ……」 「お、大袈裟なやつだな」 「だってね……」 ふふっとはにかむように微笑みをこぼす唯。くぉぉぉ! か、可愛いぜ! 思わず唯を抱く龍之介の手に力が入る。 「お、お兄ちゃん。苦しい…………」 「うう。可愛いよぉ……」 「……………………コホン……」 ん? 「もう…………いいかしら?……」 「え?」 はた……と気がついてみれば、二人に背を向けた友美が、龍之介たちをちらちらと見ている。 「あ、あ? あ?」 「そろそろ、移動しなくちゃいけないんだけど…………」 「と、友美…………いつからそこに?」 「えと、ずっといたけど…………」 「ずっと?…………最初から?」 「そ、そうね」 「……………………見た?」 「……………………見た」 な、なにぃ? するってぇと、友美の見てる前で俺は唯にキスしちまったのかぁ!? 「ゆ、唯…………」 「なぁに?…………」 駄目だ。目がイッちまってる。 「ごめんねぇ、お邪魔したくはないんだけど」 「か! 可憐ちゃん!?」 「続きは二人っきりになってからにしてね」 「あ、いや、そのね、だから」 「相変わらずアツアツで羨ましいわ」 「さ、桜子ちゃん!?」 「時を経ても変わらないものってあるのね」 「あの、それはどういう…………」 「龍之介は何も考えないで、唯を幸せにしてやりゃあいいんだよ」 「あのなぁ、いずみ!」 「何だよ、いやなのか!?」 「そ、そうは言ってないだろ……」 「しっかり守ってあげなさいね。約束なんでしょ?」 「み、美沙さぁん…………」 「約束は守らないとね」 「はぁ…………」 「先輩!」 「げ、こずえちゃん…………」 「こずえ、感動しました!」 「あ、あの…………君たち?」 にやにや笑いが、目が点になっている龍之介を遠巻きにしている。 「ひょっとして?…………」 「はぁい! あぁんな感動的なキスシーンは生まれてはじめてです!」 「だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! やっぱりぃ!!」 頭を抱える龍之介を中心にして、笑いが広がった。知ってか知らずか、唯がとろけそうな顔で狼狽える龍之介にかじりつくので、余計に笑いを誘う。淳もいずみの肩を抱きながら、くすくす笑って茶々を入れる。 「ま、まあ…………仲のいいことは結構なことだし」 「せ、先輩〜〜〜」 「ひねまくってまともに唯ちゃんの相手をしてこなかったのが、いきなりキスというのもなんだけど、ま、仲良きことは美しきこと哉って言うしな。うんうん」 「そ、それしか言うことはないんですかぁ〜」 「なんだ、泣きそうな声を出して。唯ちゃんみたいな可愛い子の何が不満だ」 「それとこれとは…………」 「まわりをよく見ずに手を出したお前の責任だ。ま、唯ちゃんに不満はないようだし、別にいいんじゃないかい?」 「そりゃそうですけど…………しくしく…………」 「どうせ龍之介のことだから、おおっぴらにナンパできなくなるのが悲しいだけだろ」 「いずみぃ、それひどい」 「違うのか?」 「いやまあ、多少は…………っつぁあ!」 「お兄ちゃん…………」 「唯! いきなり何すんだよ!」 「お兄ちゃん…………まだナンパするつもりなの?」 「え? あ、いや…………」 「お兄ちゃん!!」 「しません! もうしません!!」 再び起こる笑い。だが今度は、それも長く続かなかった。 「まあ、龍之介がどんなに頑張っても、街がこの有様じゃな」 淳の言葉に沈黙が降りる。龍之介も改めて周りを見回してみて、一瞬、目を疑った。一面に瓦礫がまき散らされているばかりで、何もない街並み。歴史の教科書で見た空襲後の東京が思い起こされた。 「こ、これは…………」 「自衛隊も出てきたようだし、さっさと撤退した方が賢明なようだ」 「……………………」 「龍之介」 「はい」 「唯ちゃんを頼むぞ」 「はい…………」 「美佐子さんが無事だといいんだが…………」 言われるまでもないことだった。『憩』は、八十八町のちょうど中心あたりにある。いや、この状況だと、あったと言う方が適切なようだった。 「唯、行くぞ」 「う…………うん」 唯が不安げに可憐や淳の方を見る。なおも躊躇するその様子に、可憐が力強く、後押しの言葉をかけた。 「唯ちゃん。行きなさい」 「…………いいの?」 「我慢してるあなたを見る方が辛いわ」 「……………………」 「いい? 今度こそ、龍之介君の手を離しちゃ駄目よ」 「…………ありがとう…………マナ…………」 お礼なんて言わないで、だって私は…………その言葉が口から出るのを辛うじて可憐は押さえ込んだ。 「行くぞ。唯」 「う、うん」 「じゃあ、先輩」 「ああ。気をつけてな」 「友美はどうするんだ?」 「あ…………私は、後から行くわ」 「そうか…………?」 龍之介はさらに何か言葉をかけようとしていたようだが…………結局、何も言わないことにしたようだ。 「じゃあな」 「また後で…………」 歩き出した龍之介の後を追った唯が、淳たちを振り返り、ちょこんと頭を下げる。みんなで手を振って見送ると、慌てて龍之介を追いかけて手を繋ぎ、瓦礫の向こうに消えていった。 「さて、我々も退散しようか」 それを見届けてから、淳が振り返ってガーディアンたちに言う。とミサが口をはさんだ。 「ちょ、ちょっと待って」 「何だい?」 「取り敢えずあなたがソルジャーだってことにするとしても、あなたたち、これからどうするつもりなの?」 「取り敢えずって…………俺ってそんなにらしくないんだろうか……しくしく」 「ぼけてないで答えてよ。それとも何? ノウンワールドのエージェントには教えられないっていうの?」 「誰もそんなことは…………ああ、そうだ」 「?」 「そういや、君がノウンワールドのコマンダーだってことは証明してもらってないな」 「な!?」 何を言うんだこの野郎!? とミサは言いかけて口を噤んだ。確かに一理はある。 「私の個人IDなら、中央のドメインに照会して…………なに?」 淳がにやにや笑っている。 「ミサ・タミネンス・ウェイズバック。同家のセカンドチルドレンの一人。識別アカウントは、misa#tribium@t-weiz.marce.m-e.cern.theo.grnd110」 「なんでそれを……………………あぁあ! 覗いたわねぇ!!」 「覗いたとは人聞きの悪い。公式記録をチェックしただけじゃないか」 「あのぉ〜」 コズエが口を挟む。 「何だい?」 「いつの間にそんなのお調べになったんですか?」 「ああ」 と淳は肩をすくめ、ミサにウィンクすると、 「さっき、素敵な弾をプレゼントして頂いた時に、IDを失敬してね」 「あ、あの間にぃ!?」 「そういう君は…………コズエ・フェアロード・ライナック。同家の第三位ファミリーマザー継承者で、アカウントは、kozue#rosan@fairload.rn.c-c.prost.lag.erde035」 「すっご〜い」 「なに、感心してんのよ! んなことはどうでもいいの! ところで…………本当に公式記録をチェックしただけなんでしょうね?」 「お望みなら、プライベートデータにもアクセスするけど?」 「結構です!」 「お、怒んなくてもいいじゃないか。ちょっと身元を確認しただけなのに」 「…………まあ、偉そうに文句言える立場じゃないけど…………ってそうじゃなくて! これからどうするつもりなのか聞いてるのよ、私は!」 「ふむ…………どうする?」 と言って可憐を見る。 「い、いきなり振らないでよ…………今のところ、妙案があるわけでもないし。向こうの出方次第ってくらいよ」 「だそうだ」 「…………だからね、それくらい私でも見当つくわよ! その間、何もしないのか!?って聞いてるわけ! 特にあなた!」 「お、俺?」 「当たり前でしょ! それとも何!? 知らんふりでも決め込もうって言うの!?」 「い、いや…………それはだな」 「それは、何よ? 大体陰険だわよ。とっくに調べてるくせに、身元証明を要求してみたり。どうせ私のスリーサイズから何から調べ上げてるんでしょ!」 「いや、そんなことはないが…………調べてみたいけど…………あ痛!」 「へ?」 「緒黒先輩…………」 それまで黙っていたいずみが、形容のしようのない顔で淳を睨んでいる。 「それって…………どういう?」 「あ、あはは。単なる言葉のあや。ね?」 「先輩…………」 「い、いずみ…………ちょっと待ってくれ」 「私だって…………私だって…………言いたいこと一杯あるのに…………2000年も待って、やっと会えたのに…………ミサさんのスリーサイズを調べてみたい…………ですって?」 「いや、だからな…………」 「はいはい。いずみちゃんもそこまでにしてね」 さすがにこれ以上脱線されてはかなわないのか、可憐がいずみを止めた。 「可憐…………だって!」 「わかったから。後でゆっくりさせてあげるわよ。今はそんなことで揉めてる場合じゃないでしょ」 「でも…………」 「とにかく、もう時間がないわ。今後のことはまた改めて打ち合わせするってことでどうかしら?」 まだ何かぶちぶち言いたそうないずみを放っておいて、ミサに話を振る。 「…………この場合、仕方ないわね」 「じゃ、そういうことで、撤退しましょ」 「あ、待って。あなたたちに連絡をつけるにはどうしたらいいの?」 「えっと…………」 返答に困って、友美に助けを求める。 「『城』には端末があったから、後からアドレスを知らせるっていうのじゃ駄目?」 「それでいいわ…………って『城』って何?」 「説明すると長くなるから…………それは後にしませんか?」 ヘリコプターの爆音が近づいてくる。 「状況が状況のようだし」 「そうね。ウチのアドレスはわかるわね?」 「ええ、多分。ソルジャーが調べてるでしょうし」 友美はにっこり笑って、淳を見た。なぜか狼狽えている淳と、それを見てまたまた睨み付けているいずみ。 「じゃ、そういうことにしましょうか」 「では、また後ほど」 友美が可憐に視線を送ると、可憐は頷き、テレポートした。いずみは黙って淳の袖口をつかむと、何も言わず淳と共に姿を消した。 「桜子ちゃん。行きましょ」 「ええ…………」 「どうかしたの?」 「ううん。ミサさん、コズエさん。またね」 「え、ええ…………」 「必ず連絡して下さいね!」 コズエが元気よく桜子に答える。 「ええ…………」 桜子は、コズエに向かってにっこり笑うと、友美と共にテレポートしていった。 「そう言えば、あの子…………」 「どなたですか?」 「桜子…………ちゃんだっけ…………あなたをずっと見てたようだけど…………?」 「そうなんですか?」 「ええ…………知り合い?」 「いえ。さっき会ったばかりですから」 「そうよねぇ…………ま、気にしてても仕方ないか。私たちも引き上げましょ」 「はい」 次元暦 895.109。TERA-001。マナイユ・サライユ・アミアの三人は、ルナイユの後をつけている。正確に言うと、デート中のルナイユを、だが。 「それにしても、べたべたねぇ」 「かぁ〜、世界一の幸せ者〜って顔だわねぇ」 「…………いいなぁ…………」 「きゃ! 彼のほっぺについたアイスを……なめちゃった……」 「う〜ん。立木君の方は照れてるわねぇ」 「…………羨ましい…………」 「をや?」 「どうしたのかしら?」 「あら、立ち止まっちゃったわね」 「何か揉めてるのかしら?」 「ルナイユがしきりに誘ってるようだけど…………」 「一体何を?…………」 「え゛…………」 「う゛そ…………」 「い゛…………」 「「「ホテルに入ってった…………?」」」 思わず顔を見合わせる三人。 「どうしよう?」 「どうしようったって…………」 「まさか踏み込むわけにもいかないし」 「そう…………ね…………」 「いけないことをしてるわけでもないし…………」 「よね…………」 ちょっと沈黙。 「帰ろか」 「う、うん…………」 妙に力の無い様子で、三人はやって来た道を戻り始める。…………やっぱりショックか? 「ねぇ……」 「なに? アミア?」 「ルナイユが育った世界っていうのも、こういうのに大らかなとこだったの?」 「そうね…………必ずしもそうではなかったけど…………でもどうして?」 「ちょっと意外だったから」 「かもね…………でも、あの子にとっては自然なことだと思うわ」 「そりゃ……私もそうだと思うけど……」 「そうじゃないの」 「?」 「あの子にとって『愛する』ことは、自分の全てを捧げることなのよ」 「どういう?…………」 「うまく言えないけど…………自己犠牲とかそんなんじゃないんだけどね……献身っていうのかな。うまく言えないのよ。表に現れる行動としてはそう言ってしまっていいんだけど、なんか、ね」 「何があるの?」 「ん…………私たちでも追跡不可能な何かがあるのよ。精神の奥底に」 「そんなのが?…………でもそんなはずは…………?」 「そう…………原理的に私たちが追跡し切れないない精神構造なんてないはず…………でもそれはあるの。もっともそれはルナイユに限ったことじゃないけど」 「じゃあ、単にガーディアンが特別っていうだけじゃないの?」 「なのかも知れないわね。でもね…………」 ふと、マナイユの表情に憂鬱の影が浮かぶ。 「あの子のは…………ひどく脆い感じがするのよ。とてもね…………」 「ま………まさかぁ。だってあの子、意外とタフじゃない」 「大きな矛盾に直面してないからよ。今まではね」 「マナイユ…………」 「そのときどうなるかは…………正直……わからないわ」 八十八町は、ごく周辺の建築物を除いて、壊滅状態にあった。当然『憩』も例外ではなく、龍之介と唯は、その足で八十八学園へ向かった。八十八町の主だった建造物は病院を含めて破壊されており、最外縁部にあった八十八学園だけが、辛うじて被害を免れていたのである。 「何にもなくなっちゃったね…………」 「ああ…………」 「……………………」 「唯?」 「…………ごめん。なんでもないよ…………」 何でもないはずがないことは、唯の顔色からして明らかだったが、さすがに龍之介も余裕をなくしており、詳しく問いただすことなどできない。結局、二人とも黙りこくったまま、八十八学園の校門をくぐった。 「!……………………」 外の状況を地獄と呼ぶのなら、学園内の惨状は何と形容すべきか? 自衛隊の救援部隊が次々と到着する中で、負傷した人々が力無く群れており、あるいは既に骸と化したのか、ぴくりとも動かず体を横たえる人々で校庭は一杯になっていた。 「唯。どうした? 行くぞ」 「う、うん…………」 返事をしたものの、足が震えて前に歩き出せない。こういう状況を目にしたことがなかったわけではない。戦いがあれば傷つく者がいる。自明のことである。そして、今までは唯=ルナイユもそれを受け入れることができていた。だが、今回は違う。ひどく、その状況が恐ろしかった。理由もわからず唯は怯えていた。龍之介に抱かれて口づけを交わしたのが、とても遠い過去のような錯覚に陥っていた。 「唯?」 「お兄ちゃん…………ごめん…………」 そう言って唯は龍之介の腕にしがみついた。龍之介はしばらく唯の顔を見つめていたが、やおら唯を抱き寄せると、ゆっくりと歩き始めた。 どんなに街並みが焼けただれていても、そこに人がいなければ無惨な印象は生まれない。だがここには人がいた。大勢の人がいた。血の匂いが鼻をつき、言葉にならないうめき声が耳を刺した。 唯の異常に気がついたのは、唯自身ではなく、龍之介の方であった。校舎に近づくにつれて、唯の体が触れていなくてもわかるほどに震えだし、足取りがおぼつかなくなっていた。いくら龍之介に余裕がなくとも、さすがにおかしいことはわかる。 「唯、向こうで少し休もう」 「へ…………平気…………だよ……」 「いいから休め」 引きずるようにして木陰へ連れていき、わずかに空いていた空間に唯を座らせる。顔が血の気を失って真っ白になっており、ひどく汗をかいていた。呼吸の度に肩が上下しており、尋常ではない。 「どこか痛むところはないのか?」 「う…………ん…………」 龍之介の手が唯の額を覆う。龍之介の掌に妙に冷たい感覚が返ってくる。 「どこが…………どこが苦しい?」 「ちが…………う…………力を…………使いすぎ……ただけ…………」 「ちから?」 「ん…………」 でもいつもと違う…………いつもなら、こんな風にはならない…………予感…………何かの予感…………わからない………… 「唯、ちょっと待ってろ。薬をもらってくるから」 「い…………や…………」 震える手で龍之介の袖を握りしめようとするが、力が入らない。 「唯?」 「こ…………わい…………」 「怖い? どうした? 唯?」 「そば…………に…………」 いきなり言葉が途切れ、唯はかっくりと龍之介の腕の中にもたれ込んだ。 「唯!? おい、唯!?」 |