『そのままの君でいて』

(10 Years Episode 6)
〜 B-PART 〜

構想・打鍵:Zeke
監修:同級生2小説化計画企画準備委員会

 この作品はフィクションです。登場する人物、名称、土地、出来事等は実在するものではありません。
 また本作は(株)ELFの作品「同級生2」の作品世界を設定として使用しております。




 屋上へ出る扉の前で、友美は龍之介の方に向き直り切り出した。
「察しは付いてると思うけど‥‥」
 続けて何かを言おうとした友美だが、
「何処のバカだ。」
 低い‥‥龍之介が本気で怒っている声に、言葉を飲み込んだ。噂の元は誰だと言
いたいいらしい。
「知ってるんだろ? 言えよ。」
「ちゃんと聞いて。まだ噂の‥‥」
(段階だから。)
 そう言おうとしたのだが、
「誰なんだよっ!」
 友美の腕を『ガッ』と掴み、詰め寄る。

「E組の‥‥西島くん。」
 そのあまりの迫力に友美の口が滑る。瞬間、掴まれた腕から力が抜けた。
「そうか。」
 それだけ言うと龍之介は友美に背を向け、ゆっくりと階段を降りて始める。その背
には先程までの感情の高ぶりは見て取れなかった、端から見れば‥‥。
 友美ですら一瞬、龍之介の怒りが治まったのではないかと思った程だ。

「待って、龍くん待って。」
 慌ててその背を追い、前に回り込む。
「噂よ。あくまで噂なの。だから‥‥」
「なに泡食ってんだよ。大丈夫、ちょっと注意してくるだけだ。」
 その表情は、さっきまでの厳しいモノではなく、僅かな笑みさえ浮かべていた。
「じゃあ、私も一緒に‥‥」
 そう言いかけるが、
「何言ってんだ、2人で行ったらそれこそ疑われるじゃないか。大体、俺だって噂に
 振り回されるほどバカじゃないつもりだ。」 
 確かに2人揃って注意しに行ったら噂に拍車を駆けに行くようなモノだろう。
「本当? 本当にわかってる?」
 念を押す友美に、龍之介は笑いながら、
「大丈夫だって。少しは信用しろ。」
 そこまで言われては友美も引き下がるしかなかった。
 
「大丈夫よね?」
 3階のフロアで別れ際にもう一度声を掛ける。
「へいへい。友美には心配かけさせんよ。」
 後ろ手に手を降り龍之介は2階へ、友美はその場に留まりその背を見送った。

 不安気に誰もいなくなった階段を見つめる彼女の背後から
「よぉ、水野。」
 突然、掛けられた声に振り返ると、去年唯と共に同じクラスだった男子生徒の姿が
あった。
「ごめん、ちょっと今‥‥」
 言いかけるが、
「なあ、龍之介の奴が鳴沢を孕(はら)ませたって本当なのか?」

 噂とは恐ろしいモノで、僅かな時間の間にここまで変貌を遂げる。更に、隣にいた
その男子生徒の友人らしき生徒が、
「え? 俺が聞いた話では、連休中に堕(中絶)ろしたから問題ないって聞いたけど。」
 それを聞いて友美はゾッとした。もしこれが龍之介の耳に入ったら‥‥。それでも
冷静さを保ち、目の前の2人に向き合う。
「誰に聞いたのか知らないけど、あんまり変な噂を流さないで。龍くんを宥める私の
 身にもなってよ。」
 ちょっとした笑みを浮かべ、さも噂には関心が無いかのように振る舞う。
「それに、そんな話を龍くんが聞いたら、2人ともタダじゃ済まないわよ。」
 さりげなく警告を入れておく。だが、

「平気だろ、さっきあいつに会ったとき、全然反応が無かったから。」
「逆に拍子抜けしたよな。」
 2人が頷き合うのだが、それを聞いて今度こそ友美の背中に悪寒が走った。
 こうなると、逆にさっき龍之介が見せていた冷静さが恐い。最悪の考えが頭の中を
駆けめぐる。
 次の瞬間、友美は弾かれたように階段を駆け下りていた。
(龍くん、信じてるからね。)
 胸の中でそう呟きながら。 
 
 だが、友美の願いは通じなかった。
 龍之介が暴れ回った結果、噂は留まるどころか、更に勢いを増し、放課後を迎える
頃には全校で知らない者はいないと云うくらいにまで拡がっていた。
 もうひとつの噂を産んで‥‥。

                  ☆

 放課後のホームルームが終わると、友美はその噂から逃げ出すように教室を飛び出
した。が、廊下に出た所で男子生徒の二人組に進路を塞がれてしまう。
「なあ、水野なら知ってるんだろ? あの二人が何処までの仲なのか。連休中に鳴沢
 が子供を堕ろしたってのは本当なのか?」
 いやらしい笑いを友美に向けながら訊く。
 こうなってしまっては否定しても肯定に採られることは明白だ。友美にはそれが良
くわかっていた。わかっていたから無言で二人の脇をすり抜ける。

「ちっ」
 背後で一人が舌打ちするのが聞こえた。そしてもう一人が、
「優等生、水野友美は男を取られた腹いせに、幼なじみを売り飛ばした。」
 さらに追い打ちをかけるように二人の嘲笑が聞こえる。

 龍之介と唯の関係が明るみになると、次に出てきたのはその2人と友美との事だっ
た。なにしろ、否定していたとは言え、友美と龍之介はなかば公認のカップルのよう
なモノだったのだ。
『血の繋がりのない妹に、彼氏を寝取られた優等生』
 どこからともなくそんな噂が流れ出した。更にそこから、
『腹いせに、友美が龍之介を焚き付けた。』
 などという話まで出てきてしまった。
 確かに状況だけ見ればそう取られても仕方がない。教室に入ってきた龍之介をわざ
わざ教室外に連れ出したのは友美だし、その直後に騒ぎが起きたのも事実だ。
 更に、騒ぎが起こる前に龍之介に会った男子生徒達からは、
『唯との事をからかっても、気にも止めていないようだった。』
 という証言もある。
 面白がった連中が、そんな噂を流したのもある意味頷けるだろう。

 友美は耳を塞ぎたくなる衝動を必死に押さえ、学校を飛び出した。
 校門を出てからは、もうどうしていいかわからなかった。
『幼なじみを売り飛ばした。』
 先の男子生徒の声が頭の中で響く。
(そんな事はない!)
 その声を否定してみるが、
《嘘だ! 本当は龍之介と唯が近づくのを快く思っていないだろう?》
 悪魔の囁き。いや、もしかしたら自分の声かもしれない。
(ちがうちがうちがう)
 頭を振り、今の言葉を払うかのように友美は駆け出した。

「注意しに行く」と言った龍之介をもっと強引に引き留めるべきだった。自分が噂を
流した張本人を諫めに行くべきだった。‥‥いやそれ以前に、自分が『2人は従兄妹』
などという『嘘』をつかなければ‥‥
 胸の中で後悔の念が沸き起こる。だが、それらは全て向き合わなければならない現
実だった。
 
            ☆             ☆

『Mute』
 よほど評判の良い店でなければ、午後4時と云う時間は飲食店にとって暇な時間だ。
 幸か不幸か白蛇ヶ池公園の北側に位置する『Mute』もこの時間はお客の姿がな
く、平穏な時を過ごしていた。もっとも、暇とは言ってもやることはあるわけで、こ
の店でアルバイトをしている叶 愛衣も、グラス磨きに精を出していた。

「♪〜。」
 どうやら今日は機嫌が良いらしく、その作業も鼻歌混じりだ。
「ご機嫌だね叶君。テストの出来、そんなに良かったの?」
 愛衣の隣で、やはり同じようにグラスを磨いていたマスターが声を掛ける。
「出来の問題じゃ無いです。明日からテスト休みだから単純にそれが嬉しいだけです
 よ。」
 磨いたグラスを仕舞いながら応える。
 とは言っても、悪い出来‥‥という訳では無い。50位前後の位置を常にキープす
るだけの実力はあったし、特に今回はそれなりの手応えもあった。
「そうか、俺も嬉しいよ。明日から3日間、ランチタイムの目の回るような忙しさか
 ら解放される。」
 暗に『3日間毎日出て来てくれ』と言っているようだ。
「いいですよ。その分きっちり出すモノは出して貰いますから。」
 こちらも暗に『そのかわり、バイト代を弾んでくれ』と要求するのだからどっちも
どっちと言ったところだろうか?

『Mute』はどちらかと言えばランチタイムより夕方以降の方が客の入りが多い。
 昼間は800m近く離れた『憩』と客を分け合っているのだが、その『憩』が5時
で閉店になる為、それ以降は『Mute』へ客が流れてくる。
 それでも昼時になると、何処からお客が湧き出て来るのかと思えるほど込み合い、
待って貰うこともある。
 特に今日の混み具合は凄まじく、もし愛衣がテストで半ドンでなければ一体どうなっ
ていたろう? と思うくらいだった。
 もちろんそれは『憩』が臨時休業したからに他ならない。
「そう言えば今日のお昼は混んでましたね。『憩』が休みだったのかな?」
「きっと『Mute』(うち)の味がわかるお客さんが増えてきたんだよ。」
 愛衣はそれに応えず、溜息をついて次のグラスを手に取る。
 無視されたマスターが何かを言おうと口を開くのだが、

 からんからん

 その声はカウベルの音に消された。
 慌てて二人が入り口に目を向けて新たなお客を迎える。
「いらっしゃいま‥‥あら、一人なの? 珍しいわね。」
 ドアを開けたままで立ち尽くす友美に向かって、愛衣が軽く微笑んで見せた。

            ☆            ☆

 同じ頃、洋子と綾子も『Mute』へと続く道を歩いていた。
 2人の落ち込み様はひどく、特に綾子は先の事でからかいに来た男子生徒が、その
様に、一言も言わずに去ってしまうほどの落ち込みようだった。
 クラスメート達が色々と言葉を掛けてきてくれたが、そんなモノは何の慰めにもな
らなかった。
(どうして?)
 その言葉だけが頭の中を回っていた。
(どうして本当の事を言ってくれなかったのか?
 どうして友美の知っている事を自分達が知らないのか?
 どうして‥‥)
 前を歩く洋子が立ち止まった気配がしたので顔を上げると、目の前に見慣れた
『Mute』のドアがあった。

                    ☆

 10分後‥‥ 
 店内は険悪な空気に包まれていた。
 店に入った2人は、友美の座るカウンターには座らず、テーブル席に腰掛け、それ
きり一言も発しないまま、時刻が経過していた。
 洋子と綾子にしてみれば、友美の方から何らかの説明があって当然だと考えていた
し、友美の方は自責の念に駆られ、それを切り出せずにいた。

 愛衣はそんな3人の様子に気付いてはいたが、口を出すつもりは毛頭無かった。ひ
とりで悩んでいるなら兎も角、真っ向からぶつかり合おうとしている彼女達を止める
権利など自分には無いと思っていた。

 更に沈黙の数分が過ぎる。
 カタン‥‥
 遂にその沈黙に耐えきれなくなったのか、洋子が席を立ち友美の方に歩み寄った。
 そして‥‥
「私らには関係の無い事だってのか?」
 わかる者にしかわからない会話。だが彼女達にはそれで十分だった。
「そりゃ、私は高々1年半の付き合いだけどな‥‥綾は、お前と大して変わらない付
 き合いの長さなんだぞ。」
 諭すような口調で友美に詰め寄る。だが、友美は俯いたままカウンターの上で組ん
だ自分の手をじっと見ているだけだ。

 もちろん非は認めていた。もっと早くに打ち明けて然るべき問題と理解はしていた。
それでもあと1年、卒業してしてから‥‥高校に進学してから‥‥という甘い考えが
友美にはあった。なにしろ7年間隠し通せてきたのだから‥‥。

 一向に口を開こうとしない友美に、
「どうなんだよっ!」
 バンッ!
 手をカウンターに叩き付ける洋子。それでも友美は微動だにしない。
「そうかよ。じゃ、もう一つの噂だけどな‥‥」
 このままじゃ何も進まないと思ったのか、洋子は質問を変える事にした。
「お前が綾瀬の奴を焚き付けたって話‥‥ありゃ、なんだ?」

 しかし、洋子も綾子もこの噂に就いてはハナから信じていなかった。
『そんなことは天地がひっくり返っても絶対にあり得ない』
 それがふたりの共通した意見だった。とにかく一言でも喋って貰い、きっかけを作
りたかったのだ。だが‥‥
 洋子の言葉を聞いた瞬間、友美の顔がそれと分かるほど強張る。そして相も変わら
ず、口からは何の言葉も出てこない。今度は洋子の顔が強張る番だった。
「な、なんだよ‥‥否定しろよ。」
 だが、友美は否定できなかった‥‥その事を完全に否定出来る自信が無いから答え
られなかったのだ。
 そんな友美を見て、洋子の強ばっていた表情が一瞬悲しげに、そして険しく‥‥

 バシッ!
「見損なったぞ! 何が幼なじみだよ、友達だよっ!」
 頬を押さえ俯く友美を見下ろし、吐き出すように言う。信じていた事、人にことご
とく裏切られた。それ故‥‥
「そんなに悔しかったのかよ。唯に綾瀬を取られて‥‥」
 あまりにも迂闊な言葉が口をつく。
 その言葉に今度は友美の目が険しくなった。
 洋子の言葉が的を射ていたからではない。洋子が‥‥洋子すらも龍之介と唯の事を
そんな風に思っていた事がその理由だった。
 洋子の方に振り返り様、友美の掌が風を切る。

 パンッ!
 今度は友美が洋子の頬を張っていた。尚も怒りを込めた瞳を洋子に向け、
「だから‥‥だから黙っていたんじゃない。あなたみたいに変な誤解をする人がいる
 から従兄妹なんて偽っていたのよ! ‥‥あのふたりに血の繋がりが無いのは事実
 だけど、そんな事は関係ないじゃない。少なくとも私は、ふたりが本当の兄妹の様
 に仲が良い事を知っているわ。」
 堰を切ったように喋りだす。
「それが気に入らないってんだよ! なんでお前が知っていて私達が知らないんだ!」
「あの2人の仲を、そんな風に疚しい関係だとしか思えない人には、教えなくて正解
 だったわ。」
「‥‥んだとぉ。」
 再び洋子が手を振り上げるが、友美は臆した風もなく、
「そうよ。大体あなたは‥‥」

(まずい!)
 2人様子を見て、綾子は思った。
(このまま放っておくと、単なる個人的な罵り合いになる。)
「や‥‥」
(やめて!)
 叫ぼうとした刹那‥‥

 バシッ! パシン!
 乾いた音が2度、店内に響く。

「2人とも、いい加減にしな。」
 愛衣の声は冷静と言うよりは、冷徹だった。
 口は出すまいと思っていたのだが、ここで止めなければ事態は悪化すると判断して
の行動だ。
「あんた達がここで言い争って事態が良い方に行くのか?」

 頬を押さえ俯く友美。確かにあそこで止めてもらわなければ、言ってはならない言
葉を口にしていただろう。
 対して洋子は、気丈にも殴られた頬を押さえもせずに、愛衣の目を正面から見据え
ていた。ある確信をもって‥‥

「‥‥愛衣姉は知ってたんだ。唯と綾瀬のこと‥‥」
(まずったかな?)
 一抹の不安を感じつつも、それを全く表に出さずに、
「どうして‥‥そう思うの?」
 逆に問いかける。
「別に‥‥。ただ、何となくそう思ったんだよ。‥‥そうか、知ってたんだ。」
 洋子の視線が床へと落ちる。
「知ってたんなら冷静でいられるよな。」
 怒りの為なのか、肩が小刻みに震えはじめる。
「知らなかったのは‥‥私と綾だけかよっ!」
 半ば叫ぶように言い放つと、そのままドアへ向かって駆け出す。

 ダン! カラカラカラ‥‥

 乱暴に開け放たれたドアは、チェッカーが付いている為その勢いの大半は減殺され
たが、取り付けられたカウベルは、存分にその役目を果たすことになった。

            ☆            ☆

 翌日‥‥
「大丈夫なの?」
 心配そうに声を掛ける美佐子に対し、
「平気だよ。別に具合が悪い訳じゃないし、それに‥‥」
(こんな事で今までの事を否定されたくない)
 という思いが唯にはあった。自分まで引いてしまったらそれを認めてしまう事にな
る。それだけは避けたかった。
「それに‥‥なに?」
「ううん、なんでもない。」
 事態が深刻になれば、この同居生活事態が危うくなるという事は容易に想像が付く。
だから尚更休む訳には行かなかった。
「そう?」
 心配顔の美佐子をよそに、唯はいつもと変わらぬ声と笑顔で「行って来ます。」と
告げ、家を後にした。

「無理‥‥してるわね。」
 唯を見送った美佐子は我が子の笑顔に微塵の楽観も抱いてはいなかった。しかし当
の唯がいつも通りに振る舞っているのに、自分が動揺しても始まらないと思い、敢え
て口に出すようなことはしなかった。
 それに、彼女にはもっと重く受け止めなければならない問題がある。
 その問題の人物は3日間の停学処置を受け、まだ起き出してはいなかった。
 
                  ☆

 それなりの覚悟をもって登校したつもりなのだが、それは唯が思っていたよりも遙
かに辛い事だった。
 唯が教室に入ると同時に、一瞬だけ教室内が静かになる。そして次の瞬間にはそこ
かしこでクラスメート達がヒソヒソと小声で話しだす。
 もちろん全員という訳ではない。女子の大半と男子の内、良識派言われる1グルー
プだけはそういった話題を持ち上げていなかった。
 だからといって、席に着いた唯に誰かが話し掛けに来てくれるわけではない。そう、
こんな時真っ先に慰めに来てくれる綾子でさえ‥‥。
 唯にとっては、正にそれが一番辛いことだった。
 綾子は教室に入ってきた唯の方を見ようともせず、またお喋りの輪にも加わろうと
せず、机に置かれた雑誌に目を落としたままでいる。当然の事だが彼女の頭に雑誌の
内容などまるで入ってはいなかった。

 授業が始まるまでの短い時間を存分に楽しむかのように、話(内容はともかく)に
夢中になるグループ、トランプに興じるグループなどの光景がそこにはあった。
 そんな中で、唯と綾子、そして空いたままの洋子の席だけが、喧騒のから取り残さ
れた様に、奇妙なトライアングルを形成していた。

            ☆            ☆

 翌日も洋子は学校に来なかった。綾子も相変わらず唯と目を合わせようともしない。
 唯は完全にクラスの中‥‥いや、学校中から孤立していた。
 それでも時間が来れば放課後になるのはいつもと変わらない。

 その放課後‥‥。
 唯は一人で八十八商店街を歩いていた。担任の教師に洋子のことを聞いたら、風邪
で休んでいると言う。仮病であることは容易に想像がついたが、一応見舞いの品など
を持って行こうと思ったのだ。
 せめて会って一言謝りたかった。嘘をついていたこと、騙していたこと、信じてあ
げられなかったこと、そして‥‥
 ドンッ!
 そんな事を考えながら歩いていた為か、人とぶつかってしまう。

「あ、すみま‥‥」
 頭を下げようとした唯の目の前に、学生服姿の男子生徒3人が立っていた。3人が
3人とも見覚えがある。事ある毎に龍之介と対立していた連中だ。
 3人はニヤニヤと厭らしい笑いを浮かべながら、
「よぉ、歩きながら考え事をしてると危ないぜ。ちょっと付き合いな。」
 言うが早いか、3人は唯を取り囲む様にして人気のない路地へと歩き出した。

 その様子を背後から伺っていた男子生徒がいた。彼は暫く考え込んでいたが、やが
て意を決したかのように、4人が消えた路地裏へ入っていった。

                 ☆

 路地裏はほんの20mばかり行ったところで、大して広くない空き地になっていた。
 4方をビルに囲まれた、3人の生徒にとっては好都合な場所だった。
「まったく、こんな可愛い顔して毎晩何をやってるんだか。」
 一人が唯の方へ手を伸ばそうとするが、唯はそれを払い除けるようにして後ろへ下
がる。
「毎日、龍之介の奴に色んなサービスをしてやってるんだろ?」
 3人は面白がるかのように唯を壁際に追い詰めていく。
「あーんな事とか、そーんな事までしてあげてるんだろ?」
 遂に、背中が壁にあたる。背後は壁、3方は囲まれている。逃げ場はなかった。

「なあ? どんなことを毎晩やってるんだよ。俺達にも教えてくれないか?」
 リーダー格の生徒が唯の手を掴み、捻り上げた。同時に残りのふたりの手も伸びて
くる。

「いやぁっ‥‥おにいちゃん!」
 いないとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。もしかしたらという思いが
あったのかも知れない。
 もちろん唯の叫びは龍之介には届かなかった。だが、変化はあった。
 ドンッ! という音と共に今まで塞がれていた視界が開ける。次いで、
「逃げてっ!」
 の声。しかしその声は唯が期待していた声ではない。何故か下の方から聞こえてき
た声の方に目をやると、制服姿の男子生徒が折り重なって倒れていた。
「早くっ、誰かを呼‥‥ぐっ!」
 声が途切れる。
「っのヤロォ‥‥イイトコで邪魔しやがって。おい! 鳴沢を逃がすなっ!」
「え‥‥あ、おお。」
 難を逃れた一人が唯の腕を掴もうとするが、それより唯が駆け出す方が一瞬早かっ
た。
「待てっ! おわっ‥‥」
 追い駆けようとした男子生徒の足に、助けに入った生徒が倒れながらも手を伸ばす。
それは無理な姿勢からだったにも係わらず、かろうじて裾に届いた。
 バタッ
 出るべき足が前方に出ないので、当然の結果としてその生徒の身体は前のめりにな
り、その場に倒れ込んだ。だが、伸ばしたその手は唯の袖に届く。
 ビッ!
 制服の何処かが破れた様な音がしたが、構わず唯は走った。大通りに出て助けを呼
ぶ事しか頭になかった。ビルの隙間を走り抜け、大通りに出る。
 乱れる息を整える間もなく、あらん限りの声で‥‥

「何やってんの、唯? こんな場所で‥‥」
(誰か来てっ!)そう叫ぶために吸い込んだ息が呼吸に代わる。目の前にスーパーの
袋を下げた愛衣が立っていた。
「まったく、うちのマスターときたらどっか抜けてるのよねぇ。ピザハウスがタバス
 コ切らして‥‥どしたの、その肩?」
 言われて唯も初めて気が付いた。制服の肩口が裂け、白い肌が見えている。咄嗟に
反対の手で隠し、愛衣にぎこちない笑顔を向ける。
 だが、笑顔を向けられた愛衣の目は、ゾッとするほど厳しい目だった。
 唯の姿、そして態度から何が起こったのか推測したらしい。

 無言のまま、唯が飛び出してきた通路を奥へと歩き出す。
 進むにつれて、奥で行われている出来事が音として伝わってきた。

「てめぇのせいで鳴沢を逃がしちまったじゃねぇか!」
 怒気を含んだ男の声が、ドカドカと人を殴る特有の音と共に20mほど続く路地の
奥から聞こえてくる。
 幅2m程度の路地を抜けると申し訳程度の空き地があった。そこで3人の制服姿の
男が、蹲(うずくま)っている一人を囲み、容赦ない仕打ちを与えていた。

「龍之介も南川もいないってのに‥‥せっかくのチャンスが台無しじゃねえかっ!」
 ぐったりしている男子生徒にケリが入る。更に気を失いかけている彼の胸ポケット
を探り、
「ちっ、しけたヤローだ。これっぽっちかよ‥‥しゃーねぇ、これで如月町のゲーセ
 ンにでも行くか。」
 取り出した財布の中身に悪態を付く。

 そんな中を愛衣は表情一つ変えないで3人に近付き、まるでそれが当然の事かのよ
うに抜き取った男子生徒の手から財布を取り上げ、倒れた男の子の胸ポケットに戻し
てやる。
 その行動は全く自然で、3人の男子生徒が呆気にとられてしまった程だ。
「生きてるかい?」
 ぺしぺしと軽く頬を叩くと
「う‥‥あ‥‥お、女の子は?」
「ん? ああ、唯なら平気だよ。‥‥‥36×27は? わかる?」
「は‥‥はは、2桁のかけ算は紙と鉛筆が無いとちょっと‥‥」
「ん、意識ははっきりしてるね。立てる?」

「こら、姉ちゃん。」
 ようやく自分たちが無視‥‥と言うよりバカにされていると気付いたのか、一人が
愛衣の肩に手をかける。
「人の得物を奪っておいて、それなりの覚悟は‥‥」

「さわるな。」
「は?」
 1対3、しかも相手は女。頭を下げてくるものばかりだと思っていたのか、一瞬耳
を疑う。刃向かって来るなど毛頭考えていなかった。

「汚い手でさわるなと言ってるんだよ。」
 声のトーンも大きさも全く変わらなかったので、肩に手をおいた生徒は、次に何が
起こるのか予想できなかった。愛衣は手が置かれた肩をスッと落とし、同時に相手の
肩口を掴む。次の瞬間、信じられない事に彼の身体が宙に浮いた。
 ダダンッ!
「かっ‥‥は」
 受け身も何もなく背中から地面に叩き付けられ、呼吸が止まる。
 対して‥‥何事もなかったかのように立ち上がり、改めて空き地の入り口に立つ唯
に目をやる愛衣。破れた制服が痛々しかった。次いで倒れた男の子に目を落とす。顔
に数ヶ所の擦り傷、制服は破れこそしていなかったが、蹴られた痕なのか無数の足跡
が付いていた。

「てめっ、」
 残った二人がようやく行動を起こした。掴み掛からんと手を伸ばす。だが愛衣はそ
の手を軽く払い除け、逆に相手の袖を掴むとそのまま背後に回り込んだ。
「ぐぁぁぁ‥‥」
 本来あり得ない方向に曲げられた関節が、みしみしと本人同様悲鳴を上げる。
 流れるような、そして相手の力を最大限に利用した動き。

 尋常じゃない!

 ただ一人無事な男子生徒は直感でそう感じた。と同時に彼の行動は攻撃より防御の
方に重点が置かれた。彼は出口に向かって走り出したのだ。
 そしてそこには唯が‥‥。
 その男子生徒の動きは愛衣にも察知できた。唯を盾に取ろうというのだろう。だが
今、後ろ手に掴んでいる手を離すのは得策ではなかった。第一距離がありすぎる。そ
う判断した彼女はいささか残酷な手段を使った。

 ボキッ!
「ぎゃあぁぁぁ‥‥っ」
 この世の終わりとも思える悲鳴があがり、唯に向かいかけていた生徒の足が止まる。
 ゆっくりと振り返った彼の目に入ったのは、仲間の妙な方向に曲がった小指だった。

「その娘から離れな。」
 先程から声のトーンが少しも変わっていない。まるで普通に話し掛けられている様
な喋り方だ。怒気も殺気も含まれない声、それ故に恐ろしかった。
「聞こえない?」
 ボギッ!
 何の警告も無しに今度は薬指が‥‥しかし悲鳴は上がらなかった。苦痛が限界点ま
で達した為か強制的に脳がスイッチを切ったのだろう。
 ドォッ!
 同時に全身の力も抜けたので、支えるモノが無くなった男の身体は地面に崩れ落ち
た。その倒れた生徒に一瞥もくれず、愛衣はゆっくりと最後の一人に歩み寄る。

「あ‥‥あ‥‥」
 今まで完全に優位に立っていた場所から「あっ」と言う間に地の底まで蹴落とされ
た彼の次の行動はある意味、至極当然のものだった。
「す、すいません。お、俺がやろうって言い出したんじゃないんです。そこの二人に
 唆されて‥‥」
 許しを請う彼の言葉が耳に入っているのかいないのか、愛衣の歩みは止まらない。
「ゆ、許して下さい。もう二度と鳴沢さんには手を出しませんから‥‥」
 遂には土下座までして許しを請う。その下げられた頭を見下ろす愛衣。
「ホントにあの二人に唆されたの?」
「本当です。俺、嫌だったんだけどあいつらには逆らえなくて‥‥」
 それを聞いて、ようやく愛衣の口調が柔らかくなった。
「そう。脅されたならしょうがないね。立っていいよ。男の子がそんな格好している
 のを見られたらマズイんじゃない?」
「はっ‥‥はい。」
 優しく言われ、地面に這いつくばっていた生徒がいそいそと立ち上が‥‥
 ドボォッ!
「ぐっ‥‥は」
 立ち上がる途中、中腰になった辺りで愛衣のヒザがその生徒の鳩尾に的確に入った。
「バカだね。女の子を盾に取るような奴を許す訳ないでしょ。」
 胃の辺りを押さえながら前のめりになって倒れていく男子生徒に言ってやる。
 ガシッ
 最後に後頭部へヒジが叩き込まれ、その時点で意識の無くなった彼の身体は、受け
身も取れず顔面から地面へ接触した。
 それでもまだ終わらなかった。一番最初に投げ飛ばした生徒が仰向けに倒れている
場所まで戻り、その胸ぐらを掴む。そして‥‥
 バシッ!
 あらん限りの力でその生徒の頬を張った。
「うっ‥‥」
 うめき声が上がり、うっすらとその目が開く。
「気が付いたか? 良く覚えて置きな。今度あの娘に手を出したら指の1本や2本じゃ
 済まないよ。‥‥もっとも、それ以前に洋子や龍之介が黙っちゃいないと思うけど
 ね。」
 胸ぐらを掴まれた生徒の目が大きく見開かれた。二人の名を呼び捨てに出来るほど
の女性‥‥
「あ‥‥あんた、一体‥‥」
「二度は言わないよ‥‥返事は?」
 聞こえなかったかのように答えを促す。それを聞いて男子生徒が慌てた様に首を縦
に何度も振った。それを見て満足そうに笑みを返す愛衣。
「いい子だ。‥‥もう少し寝てな。」
 ゴッ!
 言い終わらぬ内に、彼のアゴにヒザ蹴りが決まった。

                  ☆
    
「痛ててて」
「我慢なさい、男の子でしょ。」
 ピザハウス『Mute』にはこの時間にしては珍しくお客が2組いたが、彼らの事
をさして気にしてはいないようだった。
「はい、終わり。」 
 特大のバンソーコーを張り付け、
「腫れてる処はこれで冷やして。」
 そう言って氷嚢を手渡す。

「叶さん、針と糸ある?」
 ロッカールームのドアが開き、唯が顔を出す。破れた制服の代わりに若草色の地に
オレンジのロゴ入り『Mute』のスタッフトレーナーを着込んでいる。
「ほぉ、よく似合うね。そのままうちで働かない?」
 その唯に向かって、厨房から顔を出したマスターが妙なお世辞を言う。
「ふう、よりによって商売敵のトレーナーに袖を通すなんて‥‥お母さんに会わせる
 顔がないよ。」
 口ではそう言ってはいるが、どこか嬉しそうだ。
「そっか。鳴沢さん家は喫茶店だったっけ。」
 まぶたの上を冷やしながら樹が口を挟むと、途端に唯の顔から笑いが消えた。そし
てその彼に向かって深々と頭を下げる。
「ごめんなさい。唯のせいでひどい目に会わせちゃって‥‥それからありがとう、助
 けてくれて。‥‥あの、ごめんなさい。名前、わかんないや。」
 一瞬愛衣が『えっ?』というような顔をする。てっきり顔見知りだと思っていたか
らだ。
「別に謝る事無いよ。知らないの当たり前だから、G組の都築(つづき)樹(いつき)。
 龍之介君と同じクラスなんだ。」
「お兄ちゃんの‥‥。」
「それからこの傷も僕が勝手にやった事なんだから気にする必要ないよ。」
「でも‥‥。」
「いいんだよ。こう言っちゃなんだけど、鳴沢さんの為にやった訳じゃないんだから。」
「え?」
 今度は唯が目を丸くする。

「僕‥‥3年になって同じクラスの奴等にいじめを受けるようになったんだ。」
 ポツポツと樹が喋り出す。
「悔しかったけどそれに立ち向かう勇気も度胸もなくて‥‥あの時も意味無く殴られ
 たり蹴られたりしてた。――あ、だから殴られるのは慣れてるんだ――で、偶々そ
 の時教室に入ってきた人に助けを求めて‥‥。」
「それが龍之介だった‥‥と。」
 愛衣が後を引き継ぐと樹が首を縦に振った。
「お兄ちゃんが?」

 この時唯の頭の中では、助けを求められた龍之介が颯爽といじめっ子達の前に立ち
はだかり、相手をけちょんけちょんに叩きのめす映像が浮かんだ。その樹が今度は自
分を助けてくれた、そう思うと唯は嬉しくなった。だが‥‥

「無謀な事するわね。」
 愛衣の意見は違うようだ。
「助けてくれなかったでしょう?」
「うん。反対にボッコボッコにやられちゃって‥‥」
 それを聞いた瞬間、唯の頭の中で先程の映像が1000ピースのパズルより細かく
なって崩れていった。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
 またも深々と頭を下げる唯に、樹は「いーよいーよ」と手を振り続ける。
「他人に助けを求める前に自分の力で当たってみろ、何もしないで助けを求める奴は
 大嫌いだ‥‥って。何発殴られたかわからないくらい殴られた。終いにはそれまで
 僕の事をいじめてた連中が止めに入ったくらいで‥‥。」
「あはは。龍之介らしいね。」
「それ以来、ぱったりといじめが無くなったんだ。それに僕も自信がついた。あんな
 に殴られたのを我慢できたじゃないかって‥‥だから今日だって飛び込んで行けた。
 あの連中の蹴りなんて龍之介君の蹴りに比べれば大したこと無かったよ。」
「ごめんなさい。」
 三度頭を下げる唯。樹の言葉を『あの時の龍之介の蹴りの方が痛かった』と解釈し
たらしい。
「あ、別にそういう意味じゃないんだ。」
 唯の謝罪に樹が慌てて否定する。
「そ、そう言えば龍之介君の様子はどう?」
 このままでは永久に謝られ続けるのではないかと思った樹が話題を変える。しかし
結果としてその話題は逆に唯を落ち込ませることになった。
「お兄ちゃんとはあの日から一言も話してないよ。お母さんの作ったご飯も食べない
 でカップ麺ばかり食べてるし‥‥昨日お母さんから言われたんだ。これ以上一緒に
 暮らしてるとお互いに辛いことばかりだから別々に暮らそうかって‥‥でも、唯は
 辛い事なんか少しも無いって思ってる。唯が一番辛いのは‥‥。」
 言葉を切る唯。が、愛衣にも樹にもそれに続く言葉が容易に想像出来た。
「駄目なのかな? 血が繋がって無くちゃ一緒に住んじゃいけないのかな?」
 声が掠れ小さくなってゆく。
「そ‥‥」
(そんな事無いよ)と言いかけた樹を愛衣が手で制す。少なくとも部外者である自分
たちが無責任に発してよい言葉ではなかった。
 唯にとってその言葉を言って欲しい人間は、ただの一人しかいないのだ。

           ☆            ☆

 この季節、午後6時を過ぎると、西の空が朱に染まり始める。と、同時に地表にあ
る全てのものもまた朱に染まり始める。それは此処、八十八公園も例外ではなかった。
 ブランコ、すべり台、鉄棒、砂場、それらはどれも自分の身体に比してひどく小さ
くなっていた。まだ明るいせいか、小学生くらいの子供達が走り回っている。
「‥‥まってよ、お兄ちゃん。」
「トロいんだよ、お前は‥‥早く来い。」
「だって‥‥。」
 そんな会話がブランコに腰掛けた龍之介の耳に入ってくる。
「兄妹‥‥か。」
 最後にここで一緒に遊んだのは何年前だったろう? 3年‥いや4年前だったか‥‥

 キィ‥‥
 そんな思いに耽る龍之介の隣にあるブランコが小さく軋む、そして人の座る気配。
「入口から見るとこのブランコ、目立つんだよね。」
 聞き馴染みのある声では無かった。顔を上げずに目だけを動かし声の主を確認する。
「‥‥‥‥」
 顔に見覚えはある。同級生だという事もわかった。だが名前が出てこない。
「都築だよ。」
 そんな龍之介に苦笑しながらも樹が答える。
「お前か‥‥」
 さすがに思い出したようだ。
「またいじめか。言っておくけど俺は助けないからな。」
 腫れたまぶたと顔のバンソーコーが龍之介にそう言わせたのだろう。
「あ、これ? これは‥‥名誉の負傷ってトコかな?」

『お兄ちゃんには黙ってて。これ以上迷惑かけられないから。』
 帰り際、唯に言われた言葉が頭に蘇る。
 龍之介の方は樹の言葉を気に止めた様子もなく、再び走り回っている小学生の方に
目を向ける。
 妹と思しき女の子が転んで泣いていた。その娘の兄が慌てて走り寄り、助け起こす。
 
「妹ってさ、可愛いよね。」
 同じようにその様子を見ていた樹がポツリと言う。
「二つ違いの妹がいるんだ。時々生意気で腹立つことあるけど‥‥でもやっぱりかわ
 いいよ。」
 聞いているのかいないのか、龍之介は無言だ。
「小学校に上がる前かな。家族で遊園地に行ってさ‥‥二人して迷子になった事があ
 るんだ。でさ、やっぱり泣くんだよね、僕の手握って。笑っちゃうけどあの時子供
 心に思ったよ。こいつは一生僕が守ってやるんだって‥‥。」
「何が言いたいんだ。」
 ようやく答えた龍之介の声は、怒気を含んでいた。
「この間のこと‥‥僕でも、同じ事をしたよ‥‥きっと。血なんか繋がっていようが
 いまいが‥‥。」
 6^<,/
 突然立ち上がった龍之介の煽りをくってブランコが派手に揺れた。
「きいた風なことを言うなよ、血の繋がりなんて関係無いだと? ‥‥それが一番重
 要な事じゃ無いか!」
 立ち上がった龍之介はブランコに座った樹の前に立つと、吐き捨てるように言った。
「同じ事だよ。7年間一緒に暮らしてきたんだろう?」
 諭すように樹が応える。
「違う! あいつは‥‥唯は、一緒に住んでるだけの女の子だ。」
「同じじゃないか、妹だって一緒に住んでる女の子だよ。」
 表情ひとつ変えずに樹は言い切り、そして続けた。
「守るべき大事な娘なんだよ。」

            ☆            ☆

「ありがとうございました。」
 閉店20分前。最後のお客がドアを押して出て行くと店内はクラシックの音楽だけ
が流れる空間になる。オーダーストップ(閉店30分前)になった時点でマスターは
帰ってしまうから、これから閉店までの約20分、さして広い空間ではないがそれを
独り占めに出来るこの時間帯が愛衣は好きだった。
 最後のお客が残した洗い物を片付け、あとは何をするでもなくスツールに腰掛け、
音楽に聴き入る。
 早いものでもう高校3年になってしまった。そろそろ進路を決めなければならない
のだが、これといった将来のビジョンは浮かんでいない。最も近い像は高校卒業と同
時に家族のいる海外へ移り住むという事だろうか。連休中に会いに行ったときも散々
そのことを言われた。帰り際に、
「高校卒業してから考える。」
 取り敢えずそう言って逃げて来たのだ。
 妹は比較的元気だった。顔色も良く、久しぶりに外を二人で散歩したりもした。そ
の時の話題は専ら洋子の事だった。
「いつ会えるかな。」
 と問う妹に
「夏休みに‥‥」
 つい口が滑ってしまった。事実、夏休みにそういう計画を立てていたのだが、
『突然会いに行ってびっくりさせてやろう。』と洋子に言われていたのだ。
「いけない、内緒だって言われてたんだ。」
 その時の妹の顔を思い出し、洋子には悪いと思ったが、明かして良かったと思って
しまった。あの笑顔を見られるなら‥‥

「私、何をやってるんだろう。」
 向こうで一緒に暮らしていればあの笑顔を何度もみられるのだ。にも係わらず自分
は日本いる‥‥一人でだ。何故か‥‥恐いのだ。妹の笑顔を見る事も出来るが、苦し
む姿もまた多く見ることになるだろう。それが恐かった。
            
 かららん!
 思い出に浸る愛衣を店のカウベルの音が現実に引き戻した。
 ハッとなって時計を見る‥‥9時半、閉店時間だ。
「すみません、閉店で‥‥龍之介。」
 振り返って立ち上がりかけた彼女の目に、入口に立つ龍之介の姿が入った。
「いいかな?」
 いくらかはにかんだ様な表情をしていたが、いつもの龍之介で無い事が容易に見て
取れた。
「困るのよね、閉店間際に来られるのって。」
 そうは言いながらも、愛衣はスツールを立ち上がるとカウンターに入り、龍之介を
招き入れた。

「何にする?」
「任せる。」
 短いやり取りの後、無言の瞬間(とき)が店内のクラシックと共に流れる。
「お待たせ。」
 コースターに置かれたグラスには、透明な氷と共に乳白色の液体が踊っていた。
「何だよ、これ。」
 任せるとは言ったが、まさかジュースが出てくるとは思わなかったらしい。当然愛
衣の答えも、
「任せるって言ったからグレープフルーツジュース。」
「あのさぁ、俺のこの憂いのある表情がジュースを欲しているような顔に見えるか?」
「ただ暗いだけじゃない。」
 ばっさりと切り捨てる愛衣。
「だからってジュースかよ、お子様的な‥‥」
 ぶつぶつ言いながらストローに口を付ける。
「そう? 今の龍之介にはピッタリだと思うけど?」
「ふん!」
 いくらか拗ねたようにグラスの中味を吸い込む。口の中にグレープフルーツ特有の
苦味を伴った甘さが広がる‥‥と、同時にその特有の苦味とは異なった苦味が感じ取
れた。一瞬、龍之介の動きが止まる。
「お・さ・け。大丈夫よ、ほんの少しだけだから。」
 そう言って自分が手に持つグラスを、龍之介のそれにカチンと当てた。

                                     ☆

「どこまで知ってる‥‥」
 グラスを半分ほど明けたところで龍之介がポツリと聞く。
「ほとんど全部。龍之介の知らないことまで知ってるかもね。」
「知ってるよ、唯が妙な連中に絡まれた事もな。‥‥絡んだ連中の察しもついてる。」
 ストローを使わずに直接グラスに口を付け、忌々しげに中味を流し込む。
「なんだ、あの子話しちゃったんだ。でも‥‥それだけ?」
 例え樹が話さなくても、言うべき時が来れば自分から話してしまおうと思っていた
のだからそれはそれで良いのだが‥‥、
「それだけって‥‥まだ他になんかあったのか?」
 まるでその前にも似た事があったかの様な口振りに龍之介が狼狽する。
「違うわよ。」
 そんな龍之介の態度に溜息をつきつつ、
「例えば、洋子。どうしてると思う? それから綾ちゃんとか友美ちゃんは?」
「友美や綾ちゃんはともかく、洋子の事なんて俺が知るかよ。」
 自分の想像が外れたことにホッとし、そしてそれを隠すかのようにぶっきらぼうに
愛衣の問いに答える。
「じゃあ教えて上げる、洋子はこの2日間学校を休んでる。多分、唯に会いたくない
 んだろうね。」
 それは龍之介に少なからぬ動揺を与えた。『自分がいなくても洋子が唯をかばって
くれる』勝手な思い込みだが、ある意味龍之介は洋子に信頼を寄せていた。
(‥‥いや、洋子以外にも味方になってくれそうな人物がまだいる。)
 だが、その考えは次の愛衣の一言で崩れ去った。
「多分‥‥綾ちゃんも洋子ほど極端じゃないけど、唯を避けてるんじゃないかな。」
「な、なんでだよ! あの二人、唯と仲が良い筈だろ?」
 思わず声のトーンが高くなる。
「その仲が良いと思っていた友達に、二人は隠し事されたんだよ。」
 諭すような口調。
「友達にだって隠し事の一つや二つ‥‥」
「友美ちゃんは知ってるのに?」

 頭の中でパズルが完成しつつあった。

 洋子と綾子は友美が知っている事を唯に隠されていた。もし、友達にランク付けが
許されるなら、二人は友美より格下に位置していると思っただろう。二人は唯の事を
一番の友人と考えているのにだ。
 更に言うなら、この場合、単に隠しただけでなく嘘をつき続けていたことになる。
 二人のショックは龍之介にもある程度想像できた。
 現に洋子は学校まで休んでいるという。一番仲の良い友達に放された唯は?
 龍之介の頭の中に、たった一人で好奇の視線に耐える唯の姿が浮かんだ。

「バカが‥‥辛いなら休めゃいいのに‥‥」
 口から呟きが漏れる。そんな呟きを愛衣は聞き逃さなかった。
「バカはどっちよ、辛くても唯が学校に行く理由がわからないの?」
「母親想いだからな、唯は‥‥」
 無難な答え。
「それだけ?」
“じっ”と龍之介を見たまま質問を重ねる。
「‥‥ふん。」
 龍之介はその質問をはぐらかすようにグラスの中味を一気に呷り、
「おかわり。」
 グラスを愛衣へ突き出す。
「‥‥わかってるんじゃない。」
 突き出されたグラスを受け取り、カウンターの中へ戻ると、今度はジンの量を少し
増やして――と言っても、普段店で出すものと同じ程度――龍之介へ手渡す。

「で、龍之介君の素直な意見はどうなのかな?」
 どこか茶化したような言い方は、明らかに龍之介を子供扱いしていた。
「素直な意見って何だよ。」
「このまま唯と一緒に暮らして行くのか、それとも‥‥」
「‥‥‥‥」
 答えに窮する。納得のいかない‥‥不本意な答えなら出ている。
「‥‥決まってるじゃないか。あんな謂われのない噂を流されて‥‥あんな目に会っ
 て、唯が一緒に暮らしたいと思うか?」
 少し語気が荒くなる。
「あんな目に会っても唯は一緒に暮らしたいと思ってるよ。」
「そんなのこの先どうなるかわからないじゃないか! 俺は『守ってやる』って言え
 るほど自惚れちゃいないし、そんな力もないよ。」
「今まではちゃんと『お兄ちゃん』してきたじゃない。」
「化けの皮が剥がれた兄貴でどうやって守れってんだ!」
「唯のこと‥‥好きじゃないの?」
「好きだよ!」
 間髪入れずに答える龍之介。解っていた筈なのに、ちくりと愛衣の胸の奥が痛んだ。
「嫌いな訳無いだろ、でなきゃ7年も一緒に住んでいない。」
「好きなら‥‥自分の彼女として守りなさいよ。」
 意識的、という訳では無かったが、どこか突き放す様な言い方になる。が、そんな
愛衣の言い回しも、酔いの回った龍之介は気付か無かった。
「そういう好きじゃない、妹としてだよ!」
 この言葉が偽りである事も愛衣にはわかっていた。
「前に‥‥」
(キスしたじゃない。)そう言おうとしてやめた。言うと自分を追いつめてしまうよ
うな錯覚に捕らわれたからだ。
「覚えてるよ。」
 それでも龍之介には愛衣の言いたかった事が伝わったらしい。
「でもあれから2年だぞ、俺にも色々あったんだよ。」
 先程よりいくらか声がトーンダウンしている。
「‥‥色々って?」
「だから‥‥色々だよ。」
「ほかに‥‥好きな娘が‥‥いるの?」

                  ・
                  ・
                                    ・
                                    ・

 ‥‥ひどく長い間が空いた。店内に流れるクラシックが、丸々一曲流れる間、二人
とも沈黙を守っていた。
 ふと気がつくと静寂が訪れていた。5秒‥‥ 10秒‥‥

「帰る。」
 沈黙を打ち破ったのは否定の言葉でも肯定の言葉でも無かった。いや、否定しない
というのはこの場合、肯定に近いのかもしれない。
「悪かったな、閉店間際に押し掛けて‥‥。」
 立ち上がりかけた龍之介だが、アルコールのせいか、足下がおぼつかない。
「ちょっと、大丈夫?」
 聞き返したそばで龍之介が大きくフラついた。
「ほら、あぶない。」
 後ろ向きにひっくり返りそうになる龍之介を愛衣が咄嗟に抱きかかえる。龍之介の
方もそのまま後ろに倒れるほど間抜けではないので、結果として互いに抱き合うよう
な格好になってしまった。出会った頃は二人の身長にそれほどの差は無かったのだが、
今では3〜4センチ程龍之介の方が高い。

「唯は‥‥幸せだよね、血が繋がって無くてもこんなに心配してくれるお兄さんがい
 るんだもん。」
 龍之介の肩にあごをのせる様にして耳元で囁く。それほど二人は密着していた。
「愛衣だって妹想いだろ? 休みの度に会いに行ってるじゃないか。」
「そんなこと無いよ。本当にそう思ってるなら、一緒に住んでる‥‥。」

 そう、それは前々から疑問に思っていたことだった。妹想いの姉が一人暮らしをし
てまで一緒にいることを拒む理由が龍之介にはわからなかった。
「なあ、どうして向こうで一緒に住まないんだ?」
 その疑問をそのまま口にしてみると、
「龍之介は一緒に暮らした方がいいと思う?」
 逆に愛衣がゆっくりと龍之介の身体を押し戻しながら聞き返す。更に互いの顔が見
て取れ位の距離を置き、
「私が赤道を挟んで反対側の国に行っちゃってもいい?」
 少し潤んだ目は、ある意志が感じ取れた。真剣に答えを求めている目‥‥それは龍
之介にも伝わった。だから素直に答えられた。
「良くない。」
 一切の脚色が無い答え。離れた距離が再び近付き始める。
「どうして?」
 聞き返す。想いが止まらない。唇が出会う。
「どうしても‥‥」
「ちゃんと答えて。」
 胸に置いた手に愛衣がほんの少し入れて龍之介を押さえ、囁くような声で答えを求
める。わずかな力でもそれは効果的だった。もちろん拒んでいる訳ではない。唇を許
すには龍之介の然るべき応えが必要なだけだった。
 10センチも無い距離で目と目が合う。
(言わなくてもわかるだろ。)
 龍之介の目はそう語っていた。
 愛衣の腕に先程より強い力、押し戻す力が込められる。
 一瞬、困ったように視線を外す龍之介。だがそれは本当に一瞬だった。再び愛衣の
目を見つめ返した龍之介の口から、遂にその言葉が出た。
「…きだからだよ。」
 最初の一音が掠れる。不完全な言葉だが、容易に想像はついた。しかし想像は想像
でしかない。
(聞こえないよ。)
 だが、その言葉は声にならない。声になる前に龍之介は愛衣に唇を重ねていた。



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