〜もうひとりのセカンドチルドレン〜 ■ Seventh Act …… 惣流・アスカ・ラングレー ■
Presented by 史上最大の作戦 母の顔を、少年は二つ持っていた。 一つは記憶の中に。 一つは思い出の中に。 記憶と思い出の違い。記憶は鮮やかな色彩を伴うが、思い出はアルバムの 色。 「父さんを、私は許さないわ」 母は、その言葉を繰り返していた。 生まれてから今まで、少年は何度同じ台詞を聞いただろう。 子守り歌は、呪詛の色をしていた。 人は変わり続けると、よく言う。 知ったような口をきく大人ほど、そんな言葉を分かりもしないのに使いた がる。 少年は、変わってなどほしくなかった。 母に、変わってなど。 「変化」と「変わる」の違い。 「変化」は正への前進だが、「変わる」はそうとは限らない。 少年は母に、変ってなどほしくなかった。 母親と母の違い。 母親は肉体のみを受け継ぐ。母は心を受け継ぐ。 母を「母」と呼べる、呼び続けられる自信が、少年にはなかった。 「いい?お前もお父さんを絶対に許しては駄目よ」 「……うん」 「約束して、母さんと」 「うん、約束する。僕は父さんを許さない」 「そう、許しては駄目」 「うん」 「あの男はね、お前を、そして母さんを捨てた男なのよ」 「僕の父さんは、僕を捨てた」 「その事を一秒たりとも忘れては駄目よ、アレックス」 だから、心に鍵をかけよう。 ダイヤモンドは傷つかないが、砕ける時だってある。 壊れないために、心を閉ざそう。 自分という人格を海に沈めて、表面を柔らかい水で包もう。 深い喜びもない代わりに、深い傷も残らない。 静かな喜びに、ささやかな悲しみ。 それが、幸せだと感じた。 逃げたとは言うまい。少年は…… ……アレックス・カーレンは、あくまでも、子供だったのだから。 「……三日後に決める」 その言葉に、加持リョウジは太い眉を小さくひそめた。 「決める……と言いますと、日本へ行くパイロットの事で……?」 「当たり前だ、それ以外に何がある?」 じろりと、ミズーリ司令は加持の顔を見返した。 「はぁ……」 「三日後に模擬戦を予定している。そこで出た結果で決める。どういう結果になろう とも、だ」 「はぁ……」 お世辞にもまじめな返事とは言えなかった。 迂遠な事をするもんだ。これが加持の正直な感想である。 模擬戦ならもう何度も何度も、それこそ数え切れないほど繰り返してきている。こ の場合、適格者が二人というのはどうにも物足りない。毎回同じ相手なので、変わり 映えがしないのだ。 日本へ差し向けるパイロットを選ぶための材料なら、すでに整いすぎているほど整 っている。 「迷っておられるのですか?」 訊いてしまってから、加持はしまったと思った。人が口にしない言葉には二種類あ る。「口にしたくない」か「口にしてはいけない」かのどちらかだ。そして今自分が 発した言葉は後者に当たることを、言ってから気づいてしまった。 見る見る、この初老の司令官の顔が渋くなったのだ。 「迷う?迷うのではない、自らの判断に客観的かつ理論的な材料を与えるための物だ よ」 それを世の中では「迷う」と言うのですよ、という言葉を加持は寸前で飲み込んだ。 どうも最近口の縛めが緩くなっているようだ。自戒せねばならない。 その代わりに、つまらない質問をした。 「やはり、アスカかアレックス、ですか」 案の定、何をか言わんやといった表情でミズーリ司令が見返す。 「当然だな。現在のところ、あの二人の成績が頭抜けている。と言うより、あの二人 しかエヴァを動かすことはできないのだからな。エヴァを動かせもしない人間を戦場 へ送るわけにはいくまい。……サードチルドレンはぶっつけ本番で起動に成功したと 聞くが、まさかそんな賭けに出るわけにもいかない。ましてや我々には駒が二つもあ るのだ、その中から選ぶのが当然だろう」 「駒が多ければよいというものでもないのでは……?」 「『大勢の料理人は、スープを駄目にする』の理屈かね?」 「日本では『船頭多くして船山に登る』と言います」 「ふむ。こういう金言めいたものは、どこの国へ行っても存在するものだな」 「それはともかくとして……我々は経済活動を行なっているわけではありません。 『大きいことはいいことだ』の理屈は、この際通用しないでしょう」 「選択肢が増えることは、必ずしもよい事とは限らない……かね?」 「私見ですが」 「ふむ……」 とだけを呟いて、ミズーリ司令は窓の外を見た。 「確かに、言われてみればそうかもしれんな……正直に言うと、私は少々あの二人を 持て余し気味だ」 「はぁ、持て余す、ですか」 「迷う」という言葉を使いたくないのかな、と加持は妙なところが気になった。 「どちらも優秀、甲乙つけがたいというのは難しい。片方を立てれば片方が立たん」 まるで企業の中間管理職みたいなことを言う。 大した人間じゃないな。ふと加持は目の前にいる人物について心の中で評価を下し ていた。 こういう職業に就いている以上、判断や決断を迫られるのは日常茶飯事だ。いやむ しろ決断を下す事が仕事だと言い換えてもよい。それあっての「責任者」である。 人の上に立つということは、何も偉そうにしていればよいというものではない。い かに早く、正確な決断を下せるか。それが全てだ。 この男には、その能力が欠如している。 「欠如している」と言えばきついかもしれないが、合格ラインを上回ってはいない。 その評価が、少し加持の口を滑らかにしてしまったかもしれない。 「事実を取るか、情を取るか……ですか?」 その言葉を聞いた瞬間、ミズーリ司令の視線の温度は、間違いなく数度は下がった。 「……どういう意味かね?」 心の中で慌てて加持は自分の口にブレーキをかける。 「いえ、何でもありません。失言でした」 「私は、アスカもアレックスも同列に扱っているはずだ。今までもそうだったし、こ れからも。そして、最終試験の時もな」 「承知しております」 「……ならばよい」 心の奥を探るような目を加持からそらすと、ミズーリ司令は窓に再び視線を投げか ける。 「全ては三日後だよ、ミスター・カジ。三日後の模擬戦の結果が全て決める」 責任者であるあなたではなくですか。 その言葉を、加持はまたしても飲み込んだ。 どうも口が悪くなっている。気をつけねばならない。 近日中に日本に戻る事になる。あそこでは今よりももっと、自分の発言に制限が設 けられる事になるのだから。 決して愛想のいい男とは言いかねるNERV日本支部の司令官の顔を思い出し、加 持は自分の気を引き締めるのだった。 「……あれ、どうしたの?」 いつものように教室の席に座りかけて、アスカは隣に腰掛けた……見たままの姿を そのまま言葉に写すなら「寝そべった」……少年の様子に気づいた。 「ん〜あ〜」 返事はすでに返事になっていない。見るたびにどんどん不精になっているようだ。 だがアスカは、そのアレックスの様子に何か異常を感じていた。何だかんだ言って 付き合いは結構長いのだ。 「どしたの、元気ないじゃない」 「そっかな?」 「何か悩みでもあんの?」 取りあえず「冷戦」状態はやめることにした。やっていてあまり気分のいいもので はないし、アレックスの顔を見ているとそんな事をやっているのがバカバカしくなっ てくるのだ。 「う〜ん。あるような、ないような……」 「ハッキリしないわねぇ。男ならちゃんと言いなさいよ」 「男はそうそう悩みを口にはしないのだ……」 「あ〜うるさい、黙りなさいこの万年正月男。言うなら言う、言わないならシャキッ としなさい!」 言葉と同時に蹴りを二三発、アレックスの横っ腹に入れる。 「あたたた」 「ほれ言え」 「分かった、分かりましたよアスカ様」 「そ、最初からそういう態度に出ればいいのよ」 「ひどいことするなぁ……」 ブツブツと言葉にならない呟きを愚痴ると、アレックスはポツリと言った。 「……咲かないんだよ」 「へ?」 「向日葵。あれからずっと、蕾のままでさぁ」 「……」 アスカがアレックスの育てている向日葵を初めて見てから、もう二日経っている。 「あんた……まさかそんな事で悩んでんじゃないでしょうね?」 「悪いかよ」 「……」 案外アレックスは真面目だ。 「なあアスカ。向日葵って、蕾が咲くまで何日かかるか知ってるか?」 「知るわけないじゃない」 「そうだよなぁ、訊いてもしょうがないよなぁ……」 それはそれで、言われた方にしてみれば腹が立つ。 「放っときなさいよ、バカ。放っときゃ咲くでしょ」 「う〜む、そうかなぁ?」 「そんなこと気にするなんて、ホントにバカなんじゃないの?」 「そうかもしれん」 「あっきれたぁ……」 話をする元気も失せる。 だが、同時にアスカは心のどこかで、微笑めいた気持ちとともに感じていた。 ……アレックスらしい。 人類の存亡だとかエヴァのパイロットとしての使命だとかに毛ほどの緊張も感じず、 かと思えば育てている向日葵の開花の時期が遅いと思い悩む、そのマイペースぶり。 今まで知り合ってきた人間の誰とも似ていない、誰とも違う。まあ「個性的」と言 えば言えるかもしれない。 だから、アレックス、らしい。本当にそう思う。 「今日は見てみたの?」 「いや、まだ。ちょっと寝坊してさぁ。いつもは毎日朝一に水やってんだけど」 見た目によらず、まめな方らしい。 会話の間にむっくりと起き上がって、それでも眠いのかだらしなく頬杖をついてい たアレックスだったが。 「……ちょっくら見てくるわ」 「は?」 「やっぱし気になるから」 どうも掴めない性格だ。突然立ち上がってドアの方に歩き出す。 「ちょ、ちょっとアレックス?授業はどうすんのよ!」 「サボりサボり……いや、言葉が悪いな。屋外自主学習だ」 「おんなじよ、バカ」 「う〜む、そうかもしれんな。ま、二限目には戻るからさ」 ひらひらと右手だけを振り、ひょこひょこと教室を出ていってしまった。 「……」 ぽかんと口を開けて見送るアスカ。 その口から出てきた言葉はアスカの口癖で、それだけに非個性的なものだった。 「……ばっかじゃないの!?」 向日葵にはこれっぽっちも興味はない。 育てているアレックスにも興味はない。 だが、ちょっとついて行けばよかったかもしれない。 机にうつぶせになりながら、アスカは少し後悔していた。 何のことはない、退屈だからだ。 「セカンドインパクト後の地球環境の変化だが……まず第一に、南極の氷が溶解した ことによる世界的な海面の上昇。イタリアのヴェネチア、オランダ、ベトナム、東京 といった元々海抜の低い地域は海の底に沈んだ。のみならず、全世界の地図は軒並み 変更を余儀なくされた。平均34メートルの海面上昇。セカンドインパクト以前の試 算によれば、南極の氷が全て溶けた場合の海面上昇は87メートルとのことだったが、 実際はその半分以下だ。理由は南極の氷を多めに試算していたことと、氷中の空気容 積が予想よりも上回ったこと、それに全ての氷が溶けたわけではないのが最大の原因 だな。 氷冠が溶けた事によって、今まで謎のままだった南極大陸そのものが初めて人類の 目にさらされる……というはずだったが、今度は海面上昇のため、何十万年あるいは 何百万年ぶりかに空気にさらされるはずの南極大陸は、一瞬にして今度は海の底に沈 んでしまった。だが南極大陸は稀少資源の宝庫だ。レアメタルを採掘できないものか と、今でも多国籍企業はあのあたりを掘削している。 第二の影響だが、これまた全世界的な気温の上昇。我々が現在いるドイツは、「プ レ・セカンドインパクト」時代には春夏秋冬があり、冬には雪が降ったものだ。…… 君たちは今笑ったが、これは本当の話だよ。 とにもかくにも、アルプスに存在していた永久氷河はその「永久」という言葉を失 い、一斉に溶解を始めた。一時期はライン川もエルベ川も氾濫し、周囲の民家は全て 押し流されてしまったものだ。 ちなみに地球気温の上昇幅は7度。これは一見小さな数字に見えるかもしれないが、 地球環境と生態系に与えた影響は多大だ。 第三の影響。それはセカンドインパクトの衝撃による地軸のズレだ。このズレこそ が先ほどの気温の上昇につながっているのだがな。 以前は、地球はその公転面に対して真っ直ぐではなかった。地軸は23.4度、直 角とズレていた。つまり公転面に対して66.6度だったのだな。 それが2000年以降、大幅に動いた。何と21度、垂直に近づいたのだ。現在の 地軸は87.7度。そのため、地球全体が四季に乏しい環境になってしまった。 この21度という幅は大きい。地球全体の質量を考えた時、セカンドインパクトの もたらした衝撃の大きさは想像を絶する。対外的な発表としては先日述べた通り、 『巨大隕石の衝突』という言葉のみが明らかになっているが、とてもとてもその程度 では地球は動かんよ。 NERVはこのセカンドインパクトの本当の原因……『光の巨人』の存在を徹底的 に隠蔽した。今でも巷間には『セカンドインパクトの真の正体!』や『巨大隕石は存 在しなかった!』などといった本が出回っているが、いずれも正鵠からは遠く離れて いるし、人々もあまり本気で受け止めてはいない。とかく秘密というのは洩れるもの だが、奇跡的に守られている希有の例だな」 この長ったらしい講義の間、アスカが噛み殺した欠伸の数は両手両足の指に余る。 殆どが一度以上聞いた事のある話だし、聞かなかった部分に関しては退屈な内容なの だ。 暇つぶしに天井を見上げ、音声遮蔽用のパネルに空けられたポツポツとした穴の数 を数えてみる。20ぐらいまで数えたところで分からなくなり、しかもバカバカしく なってきた。 (こんな話聞くくらいなら、エヴァのテストやってた方がまだましだわ) 少なくともあっちの方には「戦っている」というリアリティがある。 普段なら隣で寝ているアレックスの脇腹をつついたり、寝ていない時には小声でバ カ話をしたりして紛らわせるのだが、生憎とその相手がエスケープしている。 しょうがないので、クラスメイトの顔を一人一人眺めることにした。 何人かはアスカと同じ心境なのだろう、眠そうに目を瞬いたり、もう少し度胸のあ る生徒は眠りに入っている。 中には目の色を変えて、教師の言う事を一言一句聞き漏らすまいと真剣に聞いてい る少年もいる。 (お疲れさん。でもいくら勉強しても、エヴァに乗れなけりゃ話にならないのよ) ふらふらと視線がさまよい、そして。 (……?) アスカの隣とは違う、もう一つの空席を見つけた。 (ああ、あの脳味噌筋肉男の席だ) ジョーイ・パーリモンドの席が空っぽだったのだ。 ふと、嫌な予感がした。 『お前とはいつかケリつけるからな』 先日交わされた言葉が蘇る。 アレックスはここにいない。そして、ジョーイも。 ……まさか。 (アレックス……喧嘩したことあるのかしら) 普通は「喧嘩、強いのかしら」という疑問が先に来るのだが、この少年に関する限 り、話はそれ以前のラインになってしまう。 考えるよりも先に、身体が動いていた。 「……先生!」 椅子を蹴り、アスカは立ち上がっていた。 「セカンドインパクトが生態系にもたらした影響の事例」について述べていた老教 師が、ぎょっとしたようにアスカを見る。 「な、何かね、惣流君」 「ちょっと保健室行ってきます」 嘘だ。よほど勘が鈍い人間でない限り、一発で底が割れる。 だが言い訳する言葉をアスカは知らない。返事を待たずに教室を出ようとする。教 室中の視線が集まるのが分かった。 「ま、待ちたまえ惣流君。一体何が……」 いちいち嘘の理由を言うのも面倒くさい。アスカはドアに手をかけた格好で振り返 り、放り投げるように一言。 「生理です」 「あ……」 見る見る、60に手が届こうという教師の顔が赤くなった。 男の教師を騙すには、この言葉は実に有効的だ。月に一度しか使えないのが珠に傷 と言えば言えるかもしれないが。 ……そして、アスカの予感はものの見事に当たっていた。 例の向日葵の場所にたどり着く頃には、既に戦闘には決着がついていた。アスカが かなり長い間授業を聞いていた事を勘定に入れると、むしろアレックスに「よくもっ た」という誉め言葉を与えたいくらいだ。 「何やってんのよ、あんた達!」 少なくとも片方には、責められる筋合いはないだろうが。 「……よ、アスカ。お前もサボりか」 大柄な、大柄なだけの少年に胸ぐらを掴まれた格好のアレックスは、一体何を考え ているのかその状態でアスカに挨拶した。 「るせぇ、黙ってろ」 ジョーイはそのアレックスの横っ面をはたく。拳と頬骨の当たる音が、数メートル 離れたアスカの所にまで聞こえてきた。 「……ててて……」 それでもアレックスは、ニコニコ笑いをやめない。よく見れば薄い唇の端が切れ、 血が一本の筋になって顎を伝っている。シャツの袖からすらりと伸びた形のよい腕に は無数の擦り傷がある。相手のジョーイが見たところ殆ど無傷なのを見ると、どうや ら喧嘩どころか一方的な殴打だったらしい。 「その手を離しなさいよ、下司野郎」 アスカの声は氷点を遥かに下回っていた。ついでに言うと、女の子が言っていい言 葉の領域も遥かに超えている。 何だか知らないが、無性に腹が立った。ジョーイに対しては勿論だが、ニコニコ笑 って殴られているアレックスにもだ。 「あんたもあんたよ、アレックス!何で無抵抗のままポンポン殴られるのよ!」 「喧嘩は嫌いだなぁ」 「好きだ嫌いだと言ってられる状況?男ならねぇ、一発ぐらいやり返しなさいよ!」 「う〜む、自信がない」 本当になさそうだ。 「……ふん!」 二人の会話を聞いて気が少しそがれたのか、ジョーイは乱暴にアレックスの身体を 放り出した。小さな土煙があがる。 「こいつ、全然抵抗もしねぇ。こんな弱っちぃ奴がエヴァのパイロットだなんて、笑 わせるなぁ」 それはアスカも同感だ。だが頷くわけにもいかない。 いや、事もあろうにアレックスが頷いた。 「うむ、同感だ」 すかさず蹴りが入る。恐らくこの減らず口さえなかったら、アレックスの傷は半分 以下で済んでいたのではないだろうか。 「てて……痛いなぁ。もう少し手加減してくれよ」 「うるせぇ」 完全に優位に立っている……、いや、既に勝利者であるはずのジョーイだが、その 表情は満足という言葉からは対極の位置にある。 苛々している? そう、ジョーイは苛立っていた。頬の筋肉がピクピクと震えているのを見れば、そ れが分かる。 アスカにはその理由が分かるような気がした。 掴めないのだ、アレックスという人格が。 恐らく彼にとって、初めての人間なのだろう。彼にとっての「人間」とは、自分よ り強い人間か、あるいは自分の強さに屈服する人間のどちらかなのだろう。 アレックスは、そのどちらでもなかった。自分より弱いくせに、屈服しない。 その事に苛々しているのだ。 「けっ、おめでたい奴」 ジョーイは吐き捨てるように言うと、踵を返した。 「人類を守る英雄様が、こんな所で植物栽培だぁ?呑気なもんだぜ本当に」 言われて初めて、アスカは向日葵の存在に気がついた。 「咲かない」と言ったアレックスの言葉が蘇る。 視線を目の高さより上に走らせて、そして…… アスカは心のどこかで失望を感じた。 (咲いてない……) アレックスが危惧した通り、ひときわ大きく育っている向日葵の、その頂点にある 蕾。 それはまだ、固く閉ざされたままだった。 「は〜、うすらでかく育ってるもんだなぁ」 自分の事は遥か遠い棚の上に放り上げ、ジョーイは向日葵を見上げた。 「こんなもん育てて何になるんだ?」 「自分でもよく分からん」 「け」 言うや、ジョーイの右足が後ろへ一歩。 瞬時に、アスカは彼が何をしようとしているのか気がついた。 半テンポ遅れて、アレックスも。 「ちょ……」 「おい……」 二人分の声はしかし、その足を止めるには力がなさすぎた。 一瞬の躊躇いも逡巡も見せず、ジョーイは向日葵の幹に右足を飛ばした。 鈍い音。 ざざっ。 葉が勢いよく揺れる。 「……っててて……」 だが顔をしかめたのは、蹴ったジョーイ本人だ。 よくよく見れば、向日葵の茎は両手の指がかろうじて回るほどに太い。手をかけて いたからよく育ったに違いない。ある意味、親の恩を忘れていないようだ。 安堵の溜息の十分の一くらいの吐息が、アスカの口から洩れた。 「……けっ!」 格好がつかないのをごまかすかのように苦々しく吐き捨てると、ジョーイはその場 を立ち去ろうとする。 「ちょっと待て」 のほほんとした声が、その足を止めた。 「なんだぁ?まだ殴られ足りねぇ……」 振り返ったジョーイは、その先を言う事ができなかった。 突然目の前に、さっきまで倒れていた少年が突っ立っていたら。 そしてその目が一種異様な光を放っていたら。 おまけにいきなり胸ぐらを掴まれたりしたら。 「何しやがる?」 「蹴ったな」 アレックスの声に変化はない。それだけに恐ろしい。 「ちょ、ちょっとアレックス……」 異常に気づいたアスカが止めようとしたが、遅かった。 ジーンズに包まれたアレックスの右足が、一瞬霞んだ。 マットに重いものを落としたような、鈍い音がした。 「……か……」 鳩尾に膝を蹴り込まれたジョーイが、身体をくの字型に折り曲げる。 崩れ落ちようとして……止まった。 アレックスが、髪の毛を掴んで引きずり上げたのだ。 「な、何しやがる……」 それでもまだ強がっている。案外見上げた根性だ。 「蹴ったな」 ボソボソと、アレックスは同じ台詞を繰り返す。 「ああ、蹴った。蹴ったがどうした……」 今度はその口に膝が入った。 「ぐげっ!」 同時に、奥歯の折れる音が重なった。 「あ、アレックス……?」 事の成り行きがあまりにも急変したため、アスカの脳はパニック寸前に陥っている。 だが振り返ってニッコリ笑ったアレックスの顔は。 「だ〜いじょうぶだ。もう少し待っててくれ」 と言うや、再び顔面に膝を入れる。 二発、三発。 この小柄で細い少年のどこにこんな力がと思うくらい、その一発一発は重かった。 蹴りが入るたびに、ジョーイの腕がビクンビクンと震える。 しばらくの茫然自失の後、アスカは慌ててアレックスの背中に飛びついた。手のひ らに意外と筋肉質の身体を感じ、軽く驚く。 「バカ、やめなさいよバカ!」 「やだ、もう少し蹴らせてくれ」 「何言ってんの、殺す気?」 「殺す」というキーワードが一応この少年の琴線に触れたと見える。ぴたりとアレ ックスは動きを止めた。 「それもやだなぁ」 と呟くや、右手を離す。 ゆっくりと崩れ落ちるジョーイの身体。 「……でも最後にもう一発」 スニーカーに包まれたアレックスの足が、猛烈な勢いで跳ね上がる。 間違いなく、骨の折れる音がした。 重力に導かれるままに落ちようとしていたジョーイの身体が、急に反転した。 顎に爪先をめりこませた格好の少年は、白目をむいたまま仰向けに引っくり返る。 背中が地面に触れた瞬間、アスカは足元に間違いなく振動を感じた。 ジョーイは……ぴくりとも動かない。口の周りは血まみれだ。わずかに上下する胸 だけが、かろうじて生きている事を証明している。 「はい、おしまい」 わざとらしく両手を叩きながら、アレックスはニッコリとアスカに微笑みかけた。 「な……な……何が『おしまい』よ!!」 取りあえずアスカは怒ることにした。正直言って、どう対処していいものやら分か らないのだ。 目障りだったジョーイを思う存分やってくれて、拍手したい気持ちもある。だが同 時に、そう手放しで喜べない状況なのも確かだ。 まず、驚きが先に来た。 アレックスがここまで喧嘩馴れしているとは、夢にも思わなかった。 そして、たかが育てている向日葵を乱暴に扱われたくらいでここまで怒るとも。 「やる時にはやるじゃん」、それが正直な気持ち。 だが、複雑だった。 だから、怒る事にした。一番楽な感情表現だから。 アレックスは一旦自分の服装を確認して……血がついているが、自分の物かそれと も相手の物かがよく分からない……、それからニコニコと笑った。 「いや〜、俺も穏便に済ませるつもりだったんだけどなぁ。ついカッとなっちまった。 修行が足りんな、修行が」 「そういう問題じゃないでしょ!何よ本気になったら強いんじゃない、あんた!」 「いや、弱い」 「何でよ」 「本当に強かったらここまでやらない。適当な所で切り上げる。それができないあた り、俺も結構逆上してたんだなぁ」 「何を……」 と言いかけて、アスカはがっくりと肩を落とした。 何だか、あれこれと心配(?)したのがバカみたいだ。 「あはは、気になって見に来てくれたんだ、アスカ」 「な、何バカな事言ってんの!」 「隠すな隠すな。いや〜おかげで助かったよ」 何もしていないのに「助かった」もないもんだ。 とアスカが思った頃には既にアレックスは向き直り、向日葵の被害状況を調べてい る。 「……うん、大した事はないな。案外植物って丈夫なんだなぁ」 「何でそんなにこの向日葵の事が気になるの?」 それは大きな疑問だった。どうしてアレックスがここまで向日葵にこだわっている のか、どうしても分からないのだ。 根元にしゃがみ込んだ形のアレックスは振り返り、そして首をかしげた。 「さっきも言ったろ、自分でもよく分からんって。他の植物にはあんまり興味ないん だけど、なぜか気になるんだよなぁ」 「それじゃ分かんないわよ」 「そりゃそうだ」 あっけらかんと笑って、それからアレックスは少し考え深げな顔をした。めったに 見られない表情だ。 「う〜ん……強いて言うならば……」 その先の言葉は、つなげる事ができなかった。 小さなうめき声が、二人の会話を中断したのだ。 二対の視線が、一個所に集まる。 「……ありゃ、もう起きたか。今度は殴っちゃろかな」 「やめなさいよ、大人げない」 という会話を交わしている間にも、地面に大の字になって寝っ転がっていたジョー イはむっくりと巨体を起こした。 一瞬自分の置かれている場所がよく分からなかったらしく、きょときょとと周囲を 見渡す。 「よぉ」 アレックスが片手を挙げて挨拶すると、一瞬の間をおいて少年の瞳に……そう、今 となっては彼はただの「少年」だ……恐怖と脅えの色が浮かんだ。 「ひ……!」 血の混じった唾が飛んだ。どちらかと言うと「唾の混じった血」かもしれないが。 「さあて、第二ラウンドだな」 わざとらしく両手の指を鳴らしながらアレックスが立ち上がる。 少年の動きは素早かった。恐らく彼の人生で一二を争う速度だっただろう。 「……あれ?」 アレックスが呟いた頃には、既にジョーイの姿は豆粒よりも小さくなっていた。 「う〜む、逃げられたか」 腕組みをして苦笑するアレックス。いつもの「とろい少年」に戻っている。 「放っときなさいよ、あんな奴」 「それもそうだな」 軽く肩をすくめて、アレックスは地面に落ちていた如雨露を取り上げようとした。 二人は放っておくつもりだったが、相手はそうは思わなかったらしい。 「やいアレックス!」 遥か遠くから声が聞こえてきた。 「はいはい」 うつむいたまま、アレックスは小声で返事する。 「ちょっと司令のお気に入りだからって、いい気になってんじゃねぇぞ!」 ぴくり。 プラスチックの如雨露を持ったアレックスの手が、一瞬震えた。 「……ほう」 その声に、何を感じたのか。 アスカは思わず、うつむいたままの少年の顔と遠くでがなりたてる少年の顔を見比 べていた。 (司令の……ミズーリ司令の、お気に入り?アレックスが?) 「……どういうこと?」 アレックスの方に訊ねる。 「……」 無言しか返ってこない。顔も見せない。 「ねえ、どういうことよ、ジョーイ!」 苛立って、アスカは大声をあげていた。あんな奴に訊くのは癪だが、何だか「知っ ておかなければならない」事のような気がして。 両手両足の届かない範囲なら安全だと踏んだのか、ジョーイはいつもの尊大な態度 を取り戻していた。遠くなので分からないが、肩もそびやかしているようだ。 「へっ、アスカ、お前知らなかったのか?」 「だから何よ!」 「お前もかわいそうになぁ。いくら頑張ったって、お前日本のパイロットにはなれね ぇぜ、アスカ」 どうやら今度日本へゆくパイロットの話をしているらしい。あんな少年にバカにさ れるのも腹が立つが、同情されるのはもっと腹が立つ。 「何勿体つけてんのよ、バカ!あたしとアレックスはねぇ、あんたと違って正式な… …」 「よせ」 顔を伏せたまま、アレックスはアスカを止めようとした。 いつにない、その真剣な声。 ひょっとしたら、アスカを止めようとしたのではなかったのかもしれない。 でもアスカなら、止まったかもしれない。 だが、ジョーイを止めるには至らなかった。 大柄な少年は、憐憫と侮蔑と嫉妬をないまぜにした声で、叫んだのだ。 「アレックスはなぁ、ミズーリ司令の息子なんだよ!」 ……アスカの世界が、急速に色を失った。 視界の隅にある向日葵は……まだ咲いてはいなかった。 Eighth Act へ続く ⇔ Sixth Actへ戻る 史上最大の作戦さんのシリアス書庫へ戻る このページとこのページにリンクしている小説の無断転載、 及び無断のリンクを禁止します。 |