向日葵

〜もうひとりのセカンドチルドレン〜



■ Forth Act …… 母親の定義について ■



Presented by 史上最大の作戦





 アスカがアレックスに出会ったのは、もう何年前になるだろうか。
 母の死(言葉は記号だ)から一年くらいの間、アスカは遠縁の家に預けられていた。
何せ子供の頃のことだから、正確な年月日や期間は覚えていない。
 それにあの頃の記憶はひどく曖昧模糊としていて、過去に起こった現実と見た夢の
区別もあまりつかない(思い出したくない、覚えたくない)。
 人間というのは案外単純にできているもので、一年もするとアスカの「忘れたい」
という願望は叶えられた。養母を「ママ」と、ようやく素直に言えるようになった頃。
 アスカは、ここへ来た。
 記憶の霧が晴れるのは、どうしても「ここへ来てから」になってしまう。その水平
線上に存在する人物が、二人いた。
 加持リョウジと、アレックス・カーレンだ。
 前者に関しては、アスカは今でも全幅の信頼を置いている。まだ養父母の家に預け
られていた頃から何度も会って、まるで兄のように慕っている。
(大きくなったら、加持さんのお嫁さんになるの)
 子供じみた憧れだが、今でもアスカは本気でそれを信じている。
 そして……後者。
 今でこそ十数人いる「チルドレン」だが、数年前はまだ数えるほどしかいなかった。
 つまり、アスカとアレックスだけ。
 アレックスは、アスカがNERVに来た時から、すでにそこに存在していた。後で
聞いたところによると、正式な身柄はNERV北米支部にあるらしいが、訓練のため
にここドイツ支部に身柄を移していたらしい。
 だからアスカの到着とほとんど来た時期は変わらないはずだ。
 初対面の印象は、今でも変わっていない。
(何か、ぼ〜っとした子だなぁ)
 理科か何かを勉強していたのだろうか、アレックスは小さな植木鉢を両手に抱えて
廊下を歩いていた。そう重そうな鉢でもないだろうに、あっちへフラフラこっちへフ
ラフラと、ひどく頼りない。
 アスカの隣に立っていた加持が、そっと彼女に囁いた。
「ほら、彼がこれから君のクラスメートになる、アレックス・カーレンだよ」
 その囁き声で気付いたのだろうか、アレックスは自分の目の前にいる二人に視線を
止めた。
「……あれ、加持さん。その子がひょっとして……」
「ああ、惣流・アスカ・ラングレーだ。仲良くな」
「ええ。初めまして、アスカ」
 にっこり笑うと、アレックスは植木鉢を足元に置くと、ズボンの裾で手をこすって
からそれをアスカの方に差し出した。
 一瞬払いのけたい感情にかられたが、「加持さん」の前でそういう所を見せるのは
あんまりよくない気がして、アスカは素直にその手を取った。
 認めたくなかった。それは確かだ。
 あんなノロマと自分が同じ存在だなんて、理性と感情双方が否定して拒否した。
 自分は絶対でなければならない。
 誰にも負けてはいけない。
 いや、誰にも同じであってはならない。圧倒的な実力差で勝たなければならない。
 母親の記憶は無理に心の中に押し込めたアスカだが、いやそれだからこそ、自分に
課するプライドは大きかった。
 それは、限りなく虚しい行為だった。
 アスカが本当に誉めてほしい人物は、とうの昔に墓の下にいるというのに。
 たとえ現世にいたとしても、認めてくれるかどうかは難しかったというのに。
 でも、アスカはまるで罪人のように、自分に重荷を課した。


 ……最初は、アレックス一人だったのだろう。
 そして、アスカが加わって二人になった。
 時間の流れとともに、「チルドレン」の数は徐々に徐々に増えていった。
 けれど、それはあくまでも「パイロット候補生」にすぎない。
 数万、数十万、数百万、数億といる子供。その中から、それこそ砂漠の中の一粒の
ダイヤモンドのような「チルドレン」。
 そして最後の最後にエヴァに乗れるのは、一人か二人。
 アスカは死にものぐるいでその可能性に挑戦し続けた。そのための努力は惜しんだ
ことがなかった。
 若干14にして大学卒業という事実も、アスカの天才だけではない。勿論本人は口
に出しては「やっぱしあたしの才能のなせる業よねぇ」と言っているが、その陰には
血のにじみ出るような努力、思い出したくない記憶に裏付けられた執念があってこそ
である。
 自分で思っているよりもずっと、他人から思われているよりも遥かに、アスカは人
一倍努力家だった。


 だから、腹が立ったのだ。
 だから、何も考えていないのにエヴァのパイロットになっているアレックスが、許
せないのだ。


 問題のアレックスは、ずっとぼんやりしたままだった。何を考えているのか分から
ない顔で毎日の授業(勿論普通の学校の「授業」とは違う)を受け、ぼけ〜っとした
表情で訓練に臨んでいる。アスカのように勉強ができるわけでもなく、運動神経が特
別よいわけでもない。どれを取っても平均。
 なのに、エヴァは彼を選んだ。
 その事が、アスカのプライドを少なからず傷つけた。自分と同じレベルの人間は、
やはりそれなりの人間である必要がある。いや、そうでなければならない。
 なのに、こんな春の海みたいな奴に……。
 十数人の「チルドレン」の中から、エヴァとのシンクロ率が高かった人間が二人、
「パイロット候補」として選ばれる。人種も性別もバラバラの少年少女達だが、目指
す目標はただ一つだった。
 エヴァのパイロットになる事。
 今の所、アスカとアレックスの二人が、候補生としての通過儀礼を済ませていた。
 勢い、クラスメイトの嫉視の対象にもなるし、お互いが一緒にいる時間も長くなる。
それは、一種の「共有意識」だった。二人しか、「エヴァ」を知らない。エヴァに乗
った時の感触、感想、それらは二人しか持っていない。
 ここには、大人しかいない。同年代の「友達」もいない。いるのは自分達を「道具」
としてしか見ていない大人と、事あるごとに足を引っ張ろうとするクラスメイト達。
 アスカとアレックスは、同じだった。
 全然似ても似つかないようでいて、そっくりだった。
 その事をもしもアスカに言ったなら、一瞬虚を突かれたような顔をして、次の瞬間
には怒り出すことだろう。「あいつと一緒になんかしないで!」と。だが一瞬の沈黙
が全てを物語ってくれる。
 アレックスは……やはりぼんやりしているのだろう。春のような顔で、少しだけ肩
をすくめるだけだろう。


 ……翌日。
「へい、アスカ。昨日はアレックスに散々やられたらしいじゃねぇか」
 無遠慮な声に、アスカは読んでいた雑誌からじろりと目を上げた。決して好意的な
視線ではない。それを受け止めた少年のそれも、まあ似たような温度だ。
「……」
「へへぇ、図星か。天下無敵のアスカ様がねぇ」
 自分と同じ14歳なのに、その笑い声はひどく下卑ていて、まるで中年親父だ。
 アスカは、パタンとわざとらしく音を立てて雑誌を閉じた。
「……で?」
 自分が座る机の前に立つ大柄な少年に、氷点下の視線と声を投げる。
「お〜、こわ」
 少しだけ鼻白んだ声で、少年……ジョーイ・パーリモンドは両手を広げた。
 まあ、見るからに典型的な「アメリカン」だ。ちぢれた赤毛、彫りの深いそばかす
だらけの顔、少し脂肪の目立つ巨体。
 典型的な「アメリカン」であり、同時に典型的な「ガキ大将」だった。アスカが一
生かかわり合いになりたくないタイプである。
 だが往々にして人生というのは自分の思うがままにいかないもので、彼も……理由
はどう首を傾げても分からないのだが……「チルドレン」だった。
 ただし、「チルドレン」全てが即「エヴァのパイロット」というわけではない。公
式な数値は見たことがないが、目の前にいる少年のシンクロ率は起動レベルにも達し
ていないはずだ。
(当たり前じゃない、こんながさつな人間にエヴァが動かせるわけないじゃない)
 だからだろう、やたらとこの少年はアスカにからむ。今日も例外ではなかった。
 けっけっけ。
 思わず眉をしかめたくなるような声を上げる。この声を聞くくらいなら、ガラスに
爪を立てる音を聞いた方がましだ。
「はぁん、あんな年中ぼけ〜っとしてる奴にねぇ」
 それはアスカも同感だ。だが口に出して賛同できる話題でもない。
「……」
 無言のままで、アスカはジョーイの顔を見上げる。ニヤニヤ笑いが見下ろしていた。
そう長い間見られる顔ではない。
「どぉぉしたんだよぉ、ん?天下無敵、向かうところ敵なしのアスカ様がぁ」
 どっちも同じ意味だと訂正しようとして、アスカは言葉を呑み込んだ。
 代わりに横目で教室の中を見渡してみる。
 まだ講義が始まるまで十数分ある。教室の入りは半分近くといったところだ。まだ
10人前後ぐらいしかいない。
 その全てが、アスカと視線が合うと慌てて眼をそらした。だがその眼はどれも、わ
ずかばかりの嘲笑を含んでいた。
(やっぱり、アスカも俺(私)と同じ人間なんだ)
 そのひどく醜い平等意識、横並び意識が気持ち悪い。
 目の前に立っている少年の挑発よりも、クラスメイトが持つ「嫉妬」の方が、アス
カの癇に障った。
 普段は何を言われても右から左のアスカだったが、珍しく言葉に乗ったのだ。
「……に負けたわけじゃないんだけど」
 ポツリと呟く。
「んん?何か言ったかぁ?」
「あたしはアレックスに負けたんであって、あんたに負けたわけじゃないんだけど。
あんた、何か勘違いしてるんじゃない?エヴァを動かすことすらできないくせに」
 ああ、あたしもまだまだ子供ねぇ。
 言ってからアスカは後悔した。
 聞き流しておけばよかったのだ。エヴァの指一本動かすこともできないジョーイの
言葉など、低能の戯言と割り切っておけばよかったのだ。
 わざわざ相手と同じ土俵まで下りることはなかったのだ。
(あ〜あ、加持さんにこんな所見られたら嫌われちゃうなぁ)
 加持さんなら、ちょっとだけ苦笑して「放っとけよ、堂々としてりゃいいんだ」く
らいの気の利いた台詞を言ってくれるだろう。
 だが勿論、自分の視界を埋めていた人物は加持ではなかった。
「……んだとぉ?」
 まずいなぁ。
 アスカは本気で後悔し始めていた。こういうタイプの人間にこういう台詞を吐けば
どういう反応を示すか、よく分かっていたはずのに。
 分かっていたはずなのに、なぜか挑発に乗った。
 そしてジョーイもまた、自分の挑発に乗ったアスカの挑発に乗った。もう最悪の悪
循環、最悪循環だ。
 ならばいっそ、徹底的に乗ってしまえ。
 アスカは薄笑いすら浮かべて、少し青ざめた少年の顔を真正面から見た。
「皮肉のつもりだったらしいけど、おあいにく様。負けた相手に言われるんなら腹も
立つけど、戦闘どころかプラグスーツも着たことのない人に言われてもただの……」
 アスカは最後まで言うことができなかった。
「てめぇ!」
 という声とともに、ジョーイが机を蹴り倒してアスカに迫ったのだ。
 きゃぁ。
 数人いた少女の悲鳴が聞こえる。
 どうやらこの少年の辞書に「フェミニズム」とかいう単語は載っていないらしい。
乱暴にアスカのシャツの胸ぐらを掴もうとするジョーイ。おそらく本気で殴るつもり
なのだろう。
(こいつの精神年齢は、幼児期で止まっているみたいね……)
 目の前に拳が見えても、アスカは妙に恐怖を感じなかった。
 どこか醒めた、苦笑めいた気持ち。
 と、その時。
「お〜い、何やってんのぉ?」
 緊迫した空気を一発で粉々にしてしまう声が聞こえてきた。
「……アレックス」
 椅子から中腰で立ち上がった……正確にはシャツの襟を掴まれて立ち上がらされた
……格好のアスカは、入り口に蕭然と立つ少年を振り返った。
「うるせぇぞ、アレックス。あっち行ってろ」
 噴火口の温度をした声で、ジョーイはアレックスに凄む。だが彼に届いているのか
どうか、春風駘蕩とした少年の顔にはいささかの変化もない。フラフラと二人の所ま
で歩いてくる。
「……って言ってもぉ、ここにいないと授業受けられないしぃ、女の子が殴られるの
を黙って見てるわけにもいかないしぃ」
 聞いているだけで布団をかぶって寝込んでしまいたくなるような眠そうな声。
「ほほう、ならお前、どうするんだ?守ってみろよ、お姫さまがピンチだぜ」
 と言ってから自分の言い回しが気に入ったのか、ジョーイはゲラゲラと笑う。何を
考えているのか、つられて笑おうとしたアレックスだったが、アスカの顔を見てさす
がに口を閉ざす。
「……う〜ん、どうしよう」
 机の上に勉強道具が入った鞄を置いて、しばらく考えるようにアレックスは天井を
見上げた。とてもそうは見えないのだが、案外本気で考えているのかもしれない。
「……ふん」
 大きく鼻を鳴らすと、ジョーイはアスカの胸ぐらから腕を放した。そのまますとん
と椅子に座り込むアスカ。
 何となく白けたような顔で、大柄な少年は踵を返した。
「お前とはいつかケリつけるからな、覚えてろよアレックス」
「記憶力にはちょっと自信がない。その時になったら言ってくれ」
 確かに、三歩歩いたら忘れてしまいそうだ。
「ふん」
 もう一度唸ると、ジョーイは自分の席に戻り、派手な音を立てて椅子に腰掛けた。
 教室中の空気が、ほうっと緩む。溜息まで聞こえてきそうだ。
 寝起きのような眼で少年の動きを追っていたアレックスは、少し真顔になってアス
カに苦笑いを見せた。苦笑さえも真顔に見えてしまうほど、いつもは締まりのない顔
なのだ。
「バカだなぁ、アスカも。放っておきゃぁよかったんだ」
「うるさいわね」
 そんな事は、言われなくてもアスカ自身が一番思っている事だ。指摘されると腹が
立つのがその証拠。
「礼なら言わないからね」
「端っから期待してないさ、そんなの」
 ニコニコ笑ったままで、アレックスは机についた。
 ふぅっと溜息をついて、アスカも鞄からテキストを出す。
 また、退屈な講義が始まる。
 そこで話される内容は、決して表に出ることはない。いわゆる「トップシークレッ
ト」というやつだ。
 興味のある人間なら、それこそ眼を皿のようにして、一言一句も聞き漏らすまいと
耳をそばだてるのだろうけれど、退屈なものは何をどうしても退屈だ。
 横目でアレックスを伺うと、透明な金髪の少年は早々とテキストを枕にし始めてい
た。


 司令室は、よほどの事がない限り立入禁止である。
 ただ一人を除いて。
 そのたった一人の例外であるこの部屋の所有者は、黙然と椅子に座り、窓の外の風
景を眺めていた。
 朝は朝、昼は昼、夕方は夕方、そして夜は夜。窓という額縁の中にある風景は、時
間によってまるで違う顔を見せてくれる。
 セカンドインパクト後、このドイツには四季が訪れない。毎日毎日が少し汗ばむほ
どの夏。
 エアコンディショニングがしっかりしているこの司令室だが、窓から差し込む太陽
の光は間違いなく「夏」だ。
 どことなく不機嫌そうな顔で、彼……ウィンストン・ミズーリ司令は忌々しそうに
手元のスイッチを操作した。
 音も立てずに、ガラスが暗くなる。完全コンピュータ制御されたスモークグラスは、
必要に応じて偏光率を変えてくれるのだ。
「昼間の太陽は嫌いだ、特にセカンドインパクト後は。第一季節感がない」
 「プレ・セカンドインパクト」世代の……それも「ポスト」より「プレ」の方が数
倍も長い……ミズーリ司令は、誰もいない部屋に音声エネルギーの無駄遣いを行って
いた。
「……さて……決めねばならんか」
 机の上にある分厚い書類を、嫌そうに眺める。
 コンピュータから打ち出された無味乾燥な数字や文字が、悪感情のこもった視線を
無感情で迎える。
 二部、あった。
「安定した実力を持つアスカか、成長著しいアレックスか……」
 つまりこの書類は、二人のデータなのだろう。
「どちらかを日本へ……か。どちらも送るか、どちらも送らないならば、話は楽なん
だろうがな……」
 二人の顔写真はない。ただの数字、文字だけが優劣を競う。
 所詮、そんなものなのだろう。
「さあ、どうするかな」
 誰かに答えを教えてもらいたがっているような顔で、ミズーリ司令は呟いた。


「……何というかこう、実感湧かないよなぁ」
 エメラルドグリーンのプラグスーツの襟元を気にしながら、アレックスはブツブツ
と愚痴っていた。
 スリットスクリーンを通してもその声が聞こえたのだろう、全裸に真紅のスーツを
まとったアスカはきょとんとした顔で振り返った。
「何が?」
 乳白色をしたスクリーンの向こう側にあるシルエットに声をかける。
 エヴァのパイロットは、通常この更衣室でプラグスーツに着替える。男女の別はな
い。猛然としたアスカの抗議がなかったら、このスリットスクリーンさえも取り付け
られなかったのではなかろうか。ちなみに「何でそんな無粋な物置くんだ」と訊ねて
アスカにはり倒された少年の名前は、アレックス・カーレンという。
 そのアスカの鉄拳の犠牲者が、不満そうに言った。
「いや、今日のテストって、アレだろ?ポリゴンぐりぐり」
「CGシミュレーションって言いなさいよ」
「同じじゃねぇか」
「重みが違うわよ」
「そっかなぁ。どうもアレ見てるとゲーセン思い出すんだよなぁ」
 実はアスカも、その意見には同感だ。だがいちいち声に出していたら、進む話も進
まない。
「で?そのシミュレーションが何なの?」
「いや、どうもいまいちなんだよなぁ。気分が乗らないっていうか。やっぱり本物の
エヴァに乗って、本物の戦闘をやらないとカタルシスがない」
 その言葉が、アスカには少々意外だった。
「あれ、あんたエヴァに乗るのって嫌いじゃなかった?」
「どうせ乗るなら、って意味だよ。模擬戦だろうとシミュレーションだろうと、エン
トリープラグには入んなきゃいけないだろ?」
「ま、ね」
 生返事をしながら、アスカは左手首のボタンをクリックした。
 ぷしゅっ。
 鋭い音を立てて、だぶだぶだったプラグスーツがぴっちりと身体にフィットした。
その感触は気持ちいいような、締め付けられるような、何とも言えない妙な感じがす
る。
 スクリーンの向こう側でも同じような音がした。
「何で今さらシンクロ率のテストなんかしなきゃなんねぇんだよ、もう」
「さあ、多分あれじゃない?」
「あれって?」
「知らないの?ほら、今度エヴァを一機、日本に配属するらしいじゃない」
「へぇ、日本かぁ。ハラキリフジヤマゲイシャの国だな」
 日本人の血が流れているアスカはともかく、外国人の日本に対する印象は、程度の
差こそあれこんなものなんだろう。まあアスカにしても、そう大した知識を持ってい
るわけではない。何せ一度も行ったことのない国なのだ。
 わざわざ訂正する気にもなれないアスカは、そのまま言葉を続ける。
「もうそろそろ、決まる頃じゃない?だから今さらシンクロ率の検査するんだと思う
けどなぁ」
「面倒くさい事考えるからいけないんだ。俺に任せりゃ話は簡単だぞ」
「?」
 眉をひそめるアスカ。
「何かいい案でもあるの?」
「当ったり前よ。このミスター・カーレンに任せなさい」
 と言うからどんな案かと思えば、
「んなもん、ど〜んとまとめて二台とも送っちまえばいいんだ。二台が四台、戦力倍
増、言う事なしじゃねぇか。あ、ついでにアメリカで作ってる参号機も送っちまえ」
 と来た。
 思わずガックリするアスカ。
「あんたバカぁ!?」
 お得意の台詞が出る。
「バカって言う方がバカなんだぞ」
「あんた、お金の事考えて言ってんの?エヴァを一機保有して維持しようと思ったら、
それこそ一国の国家予算をつぎ込んでも足りないのよ?いくら金持ちニッポンだって、
一度に二台も増強したら一発で破産しちゃうわ」
「へえ、そりゃ知らなかった」
「あっきれたぁ」
「それにしてもみみっちい話だな。人類を守るとか何とか言って、結局ついて回るの
は金か」
「だから慎重の上にも慎重を期して選ばなきゃいけないのよ。間違いは許されないん
だから。日本に行くパイロットってのは、それこそ……」
 とまで言ってから。
 不意にアスカは黙り込んだ。
 今、今になってようやく、気付いたのだ。
 遅きに失したと言ってもいい。
(あたしか……アレックス、なんだ)
 急にスクリーンの向こうの影が冷たくなったように感じた。
 恐らく、あと一週間以内に「日本へ行くパイロット」は決定される。
 九分九厘間違いなく、二人のうちのどちらかだ。他の「チルドレン」ではありえな
い。一度もエヴァに乗ったことのない人間を日本へ送り込むほど、NERVもまだ自
暴自棄になってはいないだろう。
 既に、枠はせばめられているのだ。
 自分がその中に入っていることは幸運ではなく、努力と才能の賜物。
 問題は、残りの二者択一。
 弐号機パイロット、惣流・アスカ・ラングレーか。
 四号機パイロット、アレックス・カーレンか。
 意識していないどこかで感じていた「同じエヴァのパイロット」という共通認識は
途端に色と光を失い、「ライバル」という無味乾燥な言葉がそれに取ってかわる。
 ひどく、不快だった。
 アレックスの事を「ライバル」という単語に置き換える行為が、不愉快だった。
(あたしは一人でも生きていけるもん)
 アスカはかつて、こんな事を言ったことがある。相手は誰だったろう。
(だから泣かないって決めたの。あたしは一人で生きていくんだから)
 でも。
 どこかで誰かに、心の一部を預けてはいなかっただろうか。
 人が自分の意志でのみ生き、自分の意志のみで考えるというのは、驕りである。
 一つの人格というのは、独立して存在しているのではない。一部、人によっては大
部分を「他の誰か」と共有し、複合し、ないまぜになった複雑な人格が一つの形とし
て形成される。
 離れた二つの音叉がある。一つを鳴らせば、もう片方もその振動を受けて震える。
人間も、一つ一つが音程も強弱も音色も違う、音叉だ。
「……アスカ?」
 不思議そうな声に、アスカはふと我に返った。
 スリットスクリーンの隙間から、顔だけ出している少年がいる。
 その、幸せそうな、何も考えていない、ふぬけた、顔。
 思わずアスカは、ちょっと笑ってしまった。
 本当に、こいつって、変わってる。緊張だとかシリアスだとか、まるで無縁なんだ
から。
 恐らくアレックスは、隣の少女が不意に黙り込んだから不思議に思ったのだろう。
だがいざ覗いてみると、おかしそうに笑っている。いよいよもって不思議な顔をする
アレックス。
「どうかしたか?」
「……何でもないわよ、バカ」
 既にアスカにとって「バカ」は接頭辞であり、接尾辞である。
 周囲……主にアレックスはもうそんなアスカに慣れてしまい、「バカ」と言われて
も気にした風はない。
 さあ、その状況はアスカにとって幸せだろうか。ちょっと言葉の無意味さに気付く
瞬間でもある。


 シンクロテストというのは、本当に退屈極まりない。
 そもそもシンクロ率の定義や測定方法に関しても、アスカやアレックスのような一
介のパイロットにはまるで情報が伝わっていない。何をもって「シンクロ率」とする
のか、全く知らないのだ。ただ「数値が高ければいいんだな」という事しか分からな
い。
 分からないなりに、自分で何とかしようとする。たとえば漠然と「集中したら上が
るのかな」と思う。ところがこのシンクロ率というやつは、精神状態や集中力とはま
るで無縁の変数であるらしい。「ポテンシャル」とかいう格好いい、しかし実像のぼ
やけた言葉で片づいてしまう。
 だから最初の頃のシンクロテストは、本当に無味乾燥だった。テスト用のエントリ
ープラグに入ってただ眼を閉じるだけ。それだけで外部にいる専門家にはシンクロ率
の数値が分かるらしい。訓練と言うより、純然たる「検査」なのだ。
 しかしそれではあまりにも味気なさすぎる。第一その間の時間が無駄だ(テストに
は2〜3時間かかる)。そこで数年前から、同時にシミュレーションも行うことにな
った。これはドイツ支部だけの制度で、日本のNERV本部にはまだ採用されていな
い。
 つまりシンクロテスト中、パイロットはモニタに表示された「使徒」とのシミュレ
ーション戦闘を行うのである。「ついで」で作られたものだから、お世辞にもよくで
きているとは言えない。悪く言えば「退屈しのぎ」である。
 しかし世の中やってみないと分からないもので、こうしたシミュレーションによっ
ていくらかシンクロ率は向上しているらしい。瓢箪から駒というやつだ。
 ……そういうわけで、アスカは正確にインダクションレバーのトリガーを三回引い
た。
 画面に光の弾が三連射され、まるで二十年前の格闘ゲームのように粗いポリゴンで
できた「使徒」が、爆発音とともに消え失せる。
「……確かにアレックスの言うとおり。つまんないわ、これ」
 はぁ、と溜息をつく。肺の中に少し残っていた空気の塊が、LCLの中に気泡とな
ってこぼれた。
 本人は独り言のつもりでも、マイクが拾っていたらしい。
「退屈かね、アスカ」
 作戦部長の声がした。
 新しい部長である。前任者は日本人の女性だったが、使徒が新第三東京市に攻めて
くる数日前に、本国へ召還された。一月ほど前のことになるか。
 とても女とは思えないほどさばけた人で、ちょっとだけ羨ましかった。
 代わりに来たのが、今アスカに語りかけた男である。名前は……
(あれ?)
 思い出せなかった。それくらいに印象の薄い男である。前任者が個性的すぎたため
か、顔かたちさえもうっすらとしか記憶にないのだ。
 もう半年以上にもなるというのに、である。
 年齢は確か三十前後だった。覚えているのはそれくらい。
 まあここ一月ほどはあまり模擬戦の機会がなかったせいもあるが、元々影の薄い人
間なんだろう。
(あ〜あ、これならミサトの方がましだったなぁ)
 お世辞にも「作戦部長らしい」とは言えない前任者だったが、結構面白かった。こ
れでは本当にただの「検査」だ。
「退屈かね、アスカ」
 もう一度、作戦部長は訊ねた。
「……いいえ」
(退屈なのはあんたよ、あんた)
「そうか……Cc(集中力)値が少し落ちているぞ。実戦のつもりでやってくれない
と、困る」
 無茶を言う。LCLさえなかったら、ただのゲームだ。アレックスの言うことはい
ちいち当たっている。
「あと何分ぐらいですかぁ?」
 投げやりな口調が、少し表に出たかもしれない。
「そうだな……あと一時間くらいか」
「え〜!?」
 退屈で死んでしまう。
「……と言うと思った。うちのプログラマが、ちょっと面白いシステムを作ったんだ
が……いい訓練になるぞ」
「訓練?」
 少し首を傾げるアスカ。
「プログラムEV.42を起動」
 作戦部長が指示する声が聞こえる。
 瞬間、平板なスクリーンが、ふっと暗転した。
(モニタを……リセットしてる?)
 ぶぶん。
 うなり声のような起動音。
 スクリーンが虹色の光を放ち、続いて蜘蛛の巣の編み目のような模様が取って代わ
り、そして。
「……へぇ」
 次の瞬間、思わずアスカは感嘆の声をあげていた。
「凄いじゃない」
 そこには、街があった。
 天空を突き刺すビルディング、隙間を充たす街路樹、その葉の一枚一枚すら手に取
ることができるかのような、それは風景だった。
 アスカが「凄い」という感想を洩らしたのは、それが「まがい物」である事を知っ
ていたからだ。よくよく見ればビルの窓は直方体に絵を貼り付けただけだし、第一こ
こには人間の姿がない。
 上を見上げると空は映っているが、雲が動いていない。
 コンピュータによる、疑似体験だ。さっきまでのシミュレーションより現実味が増
しただけである。
 それでも大した物だ。
「新第三東京市のデータを、そっくりそのまま移植した。その気になれば破壊するこ
ともできる」
 現地では使徒が次々と攻めてきているというのに、こっちの技術者はよっぽど暇人
ぞろいらしい。
「勿論、歩けるわよね?」
「当然だ。そのために作った」
 ……つまり、やはりということだ。
 やはり、ここにいる「チルドレン」は、日本へ行くことを前提に育てられていると
いうことだ。
(試されてる?)
 その思いは、ビルの隙間に「ある物」を見つけると、より強くなった。
「あれ……」
 ズームを頭の中で念じる。
 シミュレーション画像はどうやらエヴァのオペレーティングシステムとリンクして
いるらしい。瞬間的にウィンドウが開き、アスカが注視した箇所をクローズアップし
た。今アスカが乗っているのはエヴァではなく、ただのエントリープラグのはずなの
だが、こうしているとまるで実際に搭乗しているかのような錯覚を覚える。
「あっ、アレックスだ」
 ビルに隠れていない半身だけが、こちらから伺えた。
 恐らくアレックスのモニタには、そこの位置からの映像が見えるのだろう。
 コンピュータ画像上でも、エヴァ四号機は美しい。
 光線の反射まで再現されてはいないが、イメージと記憶がそれを補完する。
「そうだ。アレックスのモニタには、弐号機の姿が映っている」
「ふ〜ん」
 アスカはいつも通り、エヴァに歩くことを命じた。
 景色がゆっくりと、背後に流れる。どこかでコンピュータが、一生懸命座標を計算
しているのだろう。
 一歩踏み出すと、目の覚めるようなエメラルドグリーンはビルの背後に完全に隠れ
た。
 しかしアスカの眉が、その瞬間ひそまる。
「どうだね、アスカ?」
「気色悪い」
「ん?どうかしたかね」
「地響きがない。歩いた気がしないわ、これ」
「そこまでは要求しないでくれ。だがそれ以外は神経にフィードバックされると思う
が」
 言われて、アスカは手近のビルに手を伸ばしてみた。
「……ふ〜ん」
 ポリゴンの上にテクスチャを貼った形のエヴァの右腕が映り、それが壁面に伸びる。
触れた瞬間、アスカの右手に抵抗感が伝わってきた。
 だが、満足のいくものではなかったのも確かだ。まるで磨き上げた鏡を障るような
感触。コンクリートのざらついた手触りではなく、つるつるのガラスのような質感。
 触らない方が、まだ現実味があったかもしれない。
 しかしアスカは首を振った。所詮些末事だ。
 思考を切り替える。
 マイクに向かって、声を出した。
「戦闘はできるんでしょ?」
「そもそも市街戦をシミュレートするために作られたシステムだ。使徒は第三東京市
に攻めてきているのだからな」
 そういえば、アスカは野外戦しか経験したことがない。
「ふ〜ん」
 先ほどの「ふ〜ん」とは、ちょっと声の色が違う。
「ほう、やる気になったようだな。シンクロ率が2ポイント上がった」
「あったりまえじゃない」
 口元を軽くつり上げると、アスカはプログナイフの装備を命じた。
 エヴァの肩の上に大きく突き出たパックが口を開き、カッターナイフの形をしたプ
ログナイフが半分突き出る。
 右手でそれを掴むと、自動的にスイッチが入った。
 案外と凝った仕組みらしい。ナイフの刃が高速回転する振動が、右手を通して伝わ
ってきた。
 悪くない感触だ。
 アスカは上唇を軽く舐めた。
 耳の奥が痺れたような音を立て始める。アスカが緊張して興奮した瞬間に、決まっ
て起こる現象。
 背筋を一瞬、冷気の波が通って過ぎた。
「市街戦……ねぇ」
 そう呟いた言葉は、アドレナリンの匂いがした。
「まさかこんなに早く復讐戦ができるなんてね、アレックス」
 相手に聞こえるはずもないのだが、アスカは口に出して言わずにはおれなかった。
 傷つけられたプライドは、10倍にして返す。
 それが、アスカの座右の銘だったから。



Fifth Act へ続く ⇔ Third Act へ戻る
史上最大の作戦さんのシリアス書庫へ戻る
このページとこのページにリンクしている小説の無断転載、
及び無断のリンクを禁止します。