遥かな過去であり、また未来でもあるとき。まだエネルギーすら存在しない、時すら刻み始められていない、混沌の中。どこからか「それ」はやってきた。いや、永遠にそこにあり続けた。いや、突然現れた。「それ」は、かつて自分が見た宇宙の残照が泡のように現れては消えるのを感知していた。いや、これから自分が見る宇宙かも知れないものを感知していた。「それ」は、なすべきことをわきまえていた。無から生じる泡のような、エネルギーにほんの一押しを加えてやるべきことを。そして、自らが観察することによって、そのエネルギーを宇宙へと育てることを。それは、「しばし」何もない「そこ」を眺めていた。時も空間もないところで、時の経過を感じたり、何かを眺めたりするとはおかしな話だこと……「それ」は、そう思考した。かつての或いは未来の記憶が、そうさせるだけのことだとわかっていながら。 再び、初めて、一度だけ、同時にエネルギー泡が無から現れた。それは、永遠にとどまっていたし、一瞬で消え去った。「それ」は長く、一瞬にも満たない思考の末、行うべきことを実行した。「観察」という行為を加えられたエネルギー泡〜正確に言うならば《ひも》か〜は、振動数を変化させながら増殖していき、無数のエネルギーへと分裂し、それぞれが固有の次元を形成し始めた。「それ」は、第1段階が終わったことに、安堵し、それら無数の次元宇宙の基を同時に「観察」し続けた。そして、素粒子が生まれ、「宇宙」が誕生した。 『これから時が流れはじめる。悠久の時が……そして、「あの時」がやってくる……』 「それ」は感慨を込めてそう思考し、「光」−エントロピーを減少させ、エネルギーを固定するもの−と、「闇」−エントロピーを増加させ、エネルギーを平衡させようとするもの−に宇宙を分けた。 『忘れないで……宇宙は光と闇に満ちています……だからこそ、愛おしいものだということを…………』 愛……かつて、いや未来、そう呼ばれていた、呼ばれるであろう思考にしばらく集中していた「それ」は、光と闇が分かたれた無数の「次元宇宙」が脈動を始めたことに気づくと第2段階を実行すべきタイミングがやってきたことを知った。そして、間違いなくそれをやってのけた。 宇宙は生まれた。そして、次元史を彩る戦いの幕が上がった。 春。一人の青年が、八十八町にある住宅街の中をぶらぶらと歩いていた。平和……陳腐だが、そんな形容がぴったりとした、ある麗らかな日の午後。青年は、とある喫茶店の前に立つと、ぼんやりと看板を見つめた。 『喫茶《憩》』 「久しぶりだな……」 少し躊躇った後、彼はドアを押し、中へ入った。カウベルが鳴る。店の主人である女性が、カウンターの奥から入り口に目をやり、声をかける。 「いらっしゃい……あら!」 その女性は青年を見知っていたようだ。懐かしい表情とともに、カウンターから出てきて、青年の前に立った。 「久しぶりね、淳くん。忘れられちゃったのかと思ったわ」 「すっかりご無沙汰しちゃって……相変わらずお綺麗ですね、美佐子さん」 「ふふ。お世辞が言えるようになったなんて、すっかり大人じゃない」 美佐子と呼ばれた女性は、優しい笑顔を向けると、カウンターの席に淳を誘った。 「1年ぶりかしら。毎日のように通ってきてくれてたのに、ぱったり来なくなっちゃってから」 「はは。すみません。大学が思ったより忙しかったんですよ。でも、またこっちに引っ越してきましたから、昔みたいに押しかけるようにしますね」 「ふふふ。期待してるわ。え、と。ところで、相変わらずサントスで良いのかしら」 「え。まだ置いてあるんですか?」 「ええ。いつまた、わがままなお客さんが来ないとも限らなかったし」 「あはは。まだあのこと憶えてるんですね。意外としつこい性格かな」 「なんとでもおっしゃい。ブレンドしかないって言っても、頑として、『俺は、ブラジル・サントスしか飲まないんだ』って言って、メニューに加えるまで、ただ来るだけで注文もしなかったくせに」 「時効ですよ。時効」 バツの悪そうな苦笑を浮かべる淳に、美佐子が追い打ちをかける。 「で、コーヒー通の淳くんとしては、うちのブレンドを試してみる気になってくれたのかしら?」 「やだなあ、もう。あんまりいじめないで、サントスでお願いしますよ」 「はいはい」 くすくす笑いながらも、美佐子は、手際良くコーヒーの準備をする。サイフォンの音が、静かにBGMが流れる店内に、その存在を主張する。不図思い出したように、淳が尋ねる。 「龍之介くんと唯ちゃんは元気ですか」 「元気も元気。4月から高3になるんだから、もう少し落ち着いてくれればいいのに、二人ともまだまだ子供のままよ」 それでも笑顔を崩さないのは、そんな二人に母親として愛情を注ぐ余地が残されていることを、内心喜んでいるからだろう。 「あの二人が元気じゃなくなっちゃったら、美佐子さんの張り合いもなくなっちゃうんじゃないですか?」 悪戯っぽく笑う淳に、澄ましたような表情を向ける美佐子。 「あらあら。大人になったっていうより、じじくさくなっちゃったみたいね。そんなことは、酸いも甘いも噛み分けたおじさんの言うことよ」 「参ったなあ。おじさんだって」 顔を見合わせて笑う二人。そこへ住居につながる勝手口からバタバタと音が聞こえてきた。何やら言い合う声が混じっている。 「また何かやったのかしら」 やれやれ、という表情で美佐子が言う。淳は、何が起こるかと、興味津々の表情だ。 「お母さん、聞いてよ。お兄ちゃんたらねえ……」 勝手口を開けて飛び込んでくるなり、唯が声を上げた。 「なに言ってんだ。こんなもん、俺は着ないぞ!」 後ろから龍之介の怒ったような声がする。 「二人とも! お客さんがいらっしゃるんですからね! やたらと勝手口から店に入って来ないの」 「お客さんなんか、この時間にいるはずが……あれ」 唯は、やっと淳の存在に気づいたようだ。 「緒黒先輩!」 「相変わらず、『お兄ちゃん』とじゃれあいかい?」 「ち、違います。せっかく唯が買ってきたトレーナーを……」 「だから! なんで唯とお揃いなんだよ!」 「いいじゃない! デザインが気にいっちゃったんだから」 「だったら、唯が一人で着れば良いだろう! なんで俺まで……あれ」 龍之介もやっと気づいたようだ。 「緒黒先輩じゃないですか!」 「久しぶりだな。相変わらず仲の良いことで」 「ちょ……ちょっと待って下さい、先輩!」 「仲良きことは美しきこと哉。うんうん」 「へ、変なこと言わないで下さいよ。一応、喧嘩なんですからね」 「喧嘩するほど仲が良いってな」 「ちぇ、他人事だと思って」 「いいじゃないか。唯ちゃんみたいに可愛い子とお揃いなら、俺が着たいくらいだよ」 「じゃ、あげます」 「お兄ちゃん!」 「うるさいなあ。こんなの着たら、またぞろ余計な事を言い出す奴が……」 「唯は平気だもん」 「あのなあ」 「はいはい、二人とも。続きはリビングでやって頂戴ね」 美佐子が割って入り、二人を店から追いやろうとしたとき。 カチン。 龍之介の手から、何か落ちた。 「龍之介、なんか落としたぞ」 「え? ああ、これ……」 「何だい?」 「いやあ、納戸で探し物をしてたら、親父の荷物の中から出てきたんですけど、少し珍しかったんで、唯に……」 言ってから、しまったという顔をする龍之介。 「何? お兄ちゃん?」 嬉しそうに唯が龍之介にまとわりつく。 「何でもねえ。親父は、滅多にこんなもん、家に押し込んどいたりしないんで、つまらないものだとは思うんですけどね」 「ちょっと、見せてくれよ」 それは、金属製のブレスレッドだった。どこにも宝石など嵌め込まれていないのに、ところどころキラキラと輝いている。龍之介の父は考古学者なので、こういうものが家にあっても不思議はないだろうが、それにしても、研究するわけでもなく、納戸に押し込めておく程、価値のないものにも見えない。 「不思議なブレスレッドだな。どういう作りになってるんだろう」 「わあ! 綺麗。ねえ、お兄ちゃん、これ、唯にくれるの?」 「誰が。何でしたら、先輩にあげますよ」 「おいおい。唯ちゃんが怒ってるぞ」 淳がちゃかすと、唯は少し拗ねたような怒ったような口調で答えた。 「ち、違います。お兄ちゃんがくれるものなんだから、どうせ大昔の呪いがかかってるとか、つけた人間が次々死んでるとか、そんなのに決まってるんですから」 「なんでそうなるんだよ。第一、いつ唯にやるって言ったんだ」 「む………!」 「ほらほら、二人とも」 美佐子が促す。しぶしぶリビングに戻る唯。龍之介がその後について行こうとして、不図立ち止まった。 「先輩」 「ん?」 「それ、何なのか、調べといてもらえませんか」 「いいのかい、俺が預かっても」 「ええ。どうせ納戸に突っ込んである位だから、親父は興味がないだろうし。でも、得体の知れないものは……」 「唯ちゃんにはあげられないよな」 にんまりと笑って淳が言う。龍之介は顔を赤くして何か言いたげだったが、 「唯になんかあげませんよ! とにかくお願いしますね」 それだけ言って、店からリビングに戻った。 「ごめんなさい。いつもあんな調子なのよ」 「良いじゃないですか。仲が良くて」 「あんな風に良くてもねえ……もっと……」 「は?」 「いえ、何でもないわ。そうそう、あれからどうしてたの?」 淳は、ブレスレッドを上着のポケットに入れると、美佐子のお喋りに付き合う事にし た。どうせヒマだし、退屈な午後は、やっぱり、ここで美佐子さんと話をしてるのが、 楽しいというもんだ。そんなことを考えながら。 次元暦2852.347 ノウン・ワールド中央評議会が緊急に招集された。 ノウン・ワールド。多次元宇宙に存在する地球の中でも、科学技術の特に進んだ「ERTH-007」「SOLS-572」「GRND-110」「ATLS-022」そして、「ERDE-035」の5つの並行存在地球間組織。今から3000年程前、「ERDE-035」で開発された次元シフト技術が、存在平面の全く異なる地球同士のコンタクトを成功させた。それ以来、科学水準の近接したこの5つの世界は、ノウン・ワールドを自称し、統合政府を形成していた。 その、統合政府の中枢機関が中央評議会であり、それが緊急に招集されることなど、この2000年以上、絶えてなかったことである。中央評議員、1025名が着席すると、議長は開会宣言を省略し、いきなり本題に入った。 「昨日の1538.24時。次元特異点の発生が報告された」 一斉にざわめく評議員達。半ば伝説化しているとはいえ、それが何を意味するのか知らない者などいなかった。 「議長、間違いないのか?」 評議員の一人が、不安を露にして質問する。 「最新技術を使った次元観測機器で確認した事だ。20回観測し直しを命じて、20回とも同じ結果が出た」 2000年前の悪夢がまた蘇る。誰も口にはしないが、全ての評議員の胸に去来した恐怖であった。議長といえど、それは例外ではない。 「修正条項201、規約8号に基づき、議長権限により、全既発見次元にプルーブを派遣することを本日0720.40時、指令した」 「コマンダーとリサーチャーの人選は?」 「本日中に完了する。各次元のトレイニーもその対象となる旨を了承して頂きたい」 再びざわめきが広がる。前回は、トレイニーの中から派遣されたのは、たった一人だけであった。それも、次元遷移特性の問題から、やむを得ずである。今回は、積極的に抜擢するという。 「確かに、前回の危機の際、次元世界を守ったのは、一人のトレイニーだった。だが、あれは偶然に近い成果であり、そのことをもって、トレイニーにも招集をかけるとはやりすぎではないのか?」 「前回我々が探査を行い、派遣が可能であった次元は、ほんの85913ほどだった。だが、今は、軽くその3倍を越える次元が確認されている。必要な人手が、前回とは桁違いなんだよ」 確かに議長の言う通りだ。しかし、情報工作や防衛工作の訓練生であるトレイニーに果たしてどれほどの成果が見込めるのか? 誰もがそう考えた。前回の件は、ほとんど僥倖に近い成果だった。ただ徒に若い命を散らせることになりはしないか? かつては辺境であった、TERA-001の代行評議員が発言した。 「かつて、TERA-001が若いトレイニーによって救われた事情は、重々承知しています。しかし、彼女は特別であって、トレイニー全般に招集をかけることは、危険な任務に犠牲を強いるだけに終わるのではないでしょうか?」 「そうかもしれん」 思いがけない議長の言葉に、TERA-001の代行評議員は、つかの間言葉を失う。 「だが、これは、次元世界全体の危機なのだ。わずかな手抜かりも許されない。そのためには、使える駒は、全て使用する。たとえどんなに若くとも、だ」 議場に沈黙が広がる。本当は誰もがわかりきっていることなのである。 「では、具体的な防衛プランと各次元の分担について、討議を開始する。議長試案が手元に届いているはずなので、それにまず目を通して頂きたい」 八十八学園、弓道場。胴着を着た生徒達が並び、弓を構えている。太鼓の合図で、一斉に矢が放たれる。 「綾子。腋が開いてるぞ」 後ろに控えていた小柄な女の子が、叱咤する。綾子と呼ばれた少女は、緊張した面持ちで、2本目の矢をつがえる。他の生徒もそれに倣う。再び、太鼓の音とともに、矢が的へ向かって宙を飛ぶ。 「駄目だ。駄目だ。どうしてそう構えがふらつくんだ。ちょっと見てろ」 少々乱暴な口のきき方が、短くカットした髪とあいまって、ボーイッシュな印象を与える。矢を弓につがえると、ぴったりと的を狙う。凛としたその表情は、一点の曇りもなく、微動だにしない姿勢が、見るものに清々しさを感じさせる。 シュッ! 彼女の手から矢が離れ、的の中央に当る。見事な的中もさることながら、その居ずまいは、とても年若い少女のものとは思えない。他の生徒達もそう思うのだろう。口々に賞賛のため息が漏れる。 「いいか。よく呼吸を整えて、腰をしっかり固定するんだ。もう何ヶ月もやってるんだから、いつまでも初心者に言うようなことを言わせるなよ」 「はい!」 後輩らしき生徒達が一斉に答える。 「じゃあ、続けて」 後輩達の様子を見るためか、彼女は、再び後ろに下がる。 「篠原先輩」 声をかけられて振り向くと、マネージャーと思しき少女が立っている。 「田村先生がお呼びです。5月の県大会のことで、打ち合わせをされたいそうです」 「わかった。香織、後を頼むな」 「ちょっと、いずみ。私に振らないで、沙也加に言いなさいよ。あの子が副部長なんだから」 「沙也加は転入生に掛かりきりだ」 「やれやれ」 「じゃ、頼んだぞ」 「はいはい」 彼女は、足早に弓道場を出ると、職員室へ急ぐ。 「いずみちゃん」 校舎の入り口を入ったところで、髪の長い女生徒が、いずみを呼び止める。ストレートロングの髪にヘアバンドがよく似合っている。眼鏡をかけたその顔からは、紛れもない知性が感じ取れる。 「友美? 春休みだっていうのに、また図書館か?」 「うん。読みかけの本があったから」 「いつものことながら、義務でもないのに熱心だなあ」 「ふふ。いずみちゃんこそ、部長になって随分張り切ってるようじゃない?」 「へへ。まあな」 急いでいたはずのいずみは足を止め、しばらく友美との雑談に花を咲かせる。年頃の少女らしく、二人はよく笑う。いずみは、コロコロと愛敬のある笑顔を見せ、友美は、穏やかに微笑するような笑顔である。 「練習は、5時で終わるんでしょ?」 「ああ。でも、打ち合わせがあるから、少し遅くなるかな」 「私もそれくらいになりそうだから、ちょうどいいわ。一緒に帰らない? 駅前に、新しい喫茶店ができたんですって」 「あれれ。品行方正で通ってる友美が、寄り道なんかしていいのかな?」 「もう! 意地悪ねえ」 「あはは。いつものところで待っててくれよ。終わったらすぐ行くから」 「OK。あんまり遅れないでよ」 「それは、打ち合わせ次第……げ! そうだ! 早く職員室に行かなきゃ!」 「じゃ、後でね」 「うん。じゃあな」 あたふたと駆け出すいずみを見送って、友美は階段を上っていった。 「はい。いつも応援ありがとう」 雑誌の取材を終えて、プロダクションから出てきた可憐が、ファンに取り囲まれて、サイン攻めにあっている。 「ええと、あなたのお名前は?……誠くんね。はい、どうぞ」 「可憐ちゃん、こっちこっち」 「あ、ごめんなさい。ええと、あなたは……わたるさんね。いつもありがとう」 トップアイドルの名に恥じない数のファンに取り囲まれ、身動きもとれない状態で、もう何枚目になるかわからないサインを書き続けている。 「はい、どうぞ。新曲も応援してね」 「可憐ちゃん、お願い」 「はい。お名前は?……衛さん? どんな字? ああ、護衛の『衛』ね。素敵な名前ね」 「可憐ちゃん、今度、新番組のドラマに出るって……」 「うん。4月から、金曜の8時、帝都テレビでオンエアなの。絶対見てね」 「う、うん! 絶対に見るからね!」 「ありがとう」 「可憐ちゃん、こっちもサインして」 「あら、ごめんなさい。あなたの名前は?……ぐりお君? ふふ。個性的な名前ね」 そこへ、時間を気にしたマネージャーから声がかかる。 「可憐ちゃん! 急いで! 5時からチャンネル9で、ドラマの収録よ!」 「ちょっと待って、ひかりさん。まだサインが……」 「早く、早く!」 「……と、できた。はい。これからも、応援してね」 サインをせがむファンに、にっこりと微笑み、色紙を手渡す。 「ごめんなさい。もっとゆっくりしたいんだけど、スケジュールが押してて。ホントにごめんなさいね」 そう言って、ファンをかき分け、パタパタと車に駆け寄る。 「早く乗って! またファンにつかまっちゃうわよ」 「わかってるって」 ドアを開け、シートにすべりこんでも、未練たらたらの様子で、かなりの数のファンが後を追ってくる。 「出すわよ」 「OK、テレビ局へレッツゴー!」 急発進するリムジン。車内でも、可憐はにこにこして、ひかりに話しかける。 「ねえ、ひかりさん。香水変えたでしょ」 「あら、わかる?」 「前のも良かったけど、落ち着いた雰囲気がして、私は好きだな、この香り」 「ふふふ。でも、気づいてくれたのが、可憐ちゃんだけって言うのも、ちょっと寂しいかな」 「ねね、どこで買ったの?」 「内緒」 「ケチ」 「言ったら、買いに行っちゃうんでしょ。駄目よ。可憐ちゃんには似合わないわ」 「そんなことないわ。私も今年で18になるんだし」 「駄目駄目。清純派タレントが、ミスト系の香りをぷんぷんさせる訳には、いかないでしょう?」 「あぁあ、残念」 「こういう香りはもう少し、大人になってからね」 「つまんないの」 「ふふふ。おませさんは、言葉だけにしといてね」 「は〜い」 「そうそう、収録の後、映画の件で、打ち合わせがあるから、帰りはちょっと遅くなるわよ」 「え〜。またぁ?」 「ごめんね。プロデューサーがどうしても、今日中に片づけたいって言うもんだから」 「クランクインはまだ先なのに、随分急ぐのね」 「可憐ちゃんを主役に迎えて、張り切ってるのよ。わかってあげて」 「しょうがない。売れっ子は辛いよ」 「言うじゃない。うふふ」 そうこうしてるうちに、車がテレビ局の駐車場にすべりこむ。通用口に、明らかに可憐待ちとわかるファンが、たむろしている。 「うわあ。一杯待ってる」 「しょうがないわねえ。最近、裏口もこれだから」 「皆に謝って、走り抜けるしかないね」 「降りたら、すかさずダッシュよ」 「まかせて」 そう言って見せた笑顔は、とびきり愛らしかった。 八十八市民病院にも春は訪れる。桜の花もあと少しで開きそうである。 「桜子ちゃん! 元気やったか?」 「REM君?」 とある病室。定期便のように毎週やってくる見舞い客が、今日も現れた。 「ちゃうちゃう。ボクは、Richard.E.McCoyやで。かっこよく、Hey! Bones!とか呼んで欲しいなあ」 「何それ?」 クスクス笑いながら、桜子と呼ばれた少女が聞き返す。リチャードが、なぜボーンズになるのか、彼女には理解できないが、いつも彼が喋るジョークの一つに思えたのだ。 「ありゃ、スタートレックって知らんかいな。アメリカの古いテレビ番組やねんけど、ボク、ファンやねん」 「そのテレビ番組が、どうして、ボーンズと関係があるの?」 「キャストにお医者さんがおってな、名前が、ドクターマッコイやねんけど、ニックネームが、ボーンズやねん」 「ふ〜ん。じゃあ、ボーンズ・REM君」 「かなわんなあ、桜子ちゃんには」 クスクス笑い続ける桜子に、リチャードが苦笑する。それにしても、どこから見ても日本人には見えない彼が、大阪弁を器用に操っているのには、少々違和感がある。 「あら、定期便の御到着ね」 「あ、看護婦さん。お元気でした?」 「看護婦が元気なかったら、どうやって患者さんを励ますのよ。変な子」 二人の会話を耳にして、病室に入ってきた看護婦が、不思議なものでも見るように、リチャード……REMを見る。 「つくづく不思議な子ね。あなたがいると、病室の雰囲気が、ぱっと変わっちゃうわ」 「そりゃ、お笑いは浪速仕込みやからねえ」 「それも多分にあるかな」 「なんやったら、二人でコンビ組んで、売り出しましょか」 桜子と看護婦の笑い声が響く。 「あははは……もう、すぐのるんだから。あなたが事故で入院してた時も笑わされっぱなしだったけど、半年経っても、パワーは全然衰えてないわね」 「元がタフやからね。山ほど牛肉食うて育つアメリカ人のパワーと、大阪育ちの環境のタッグが、ボクを最強の男に仕上げましてん」 「やだ、もう。ふふふ。そんなことばっかり言ってると、アメリカ大使館のエリート外交官の息子には、誰も見てくれないわよ」 「いやいや。男は血統やありません。中味で勝負や!」 「で、中味がお笑い?」 今度は三人の笑い声が上がる。 「おっといけない。婦長さんの用事を忘れるところだったわ。じゃ、また後で来るからね、桜子ちゃん」 「はい」 まだクスクス笑いの止まらない桜子が笑顔で答える。 「ところでどうなったの?」 「へ? 何が?」 「もう、とぼけて。ほら何てったっけ。先負学園の……」 「きょ、京子ちゃん……かな」 「そうそう。同級生の京子ちゃん。少しは進展したんでしょ?」 「いやあ……それが……まあ……」 大柄な男が、顔を赤くしてもじもじしてるのは、余り絵になる光景ではない。だが、桜子には、そのギャップが、とても可愛らしく思える。彼が来るたびに、同じ質問をして、もじもじするのを見て楽しんでる節もある。 「デート、誘った?」 「それがなあ……なんや、テニスやら空手やらの練習が忙しいゆうて、つきおうてくれへんねん」 「ま。ちゃんと休みの日とか、下調べしなかったんでしょ」 ふふ、と笑って、桜子が続ける。 「その調子じゃ、キスなんか、遥か彼方ね」 「キ、キ、キ、キスゥ?」 ますます顔を赤くするREMに、桜子はまたクスクスと笑う。 「そ、そ、それは、まだ考えても……」 「あら、アメリカ人の積極性と大阪育ちの手の早さがあったら、それくらいは、すぐにこぎついて見せるんじゃなかったの?」 「それがまあ、可愛い子やねんけど、なかなかお堅くて……」 「そんな子ほど、口説き甲斐があるとも言ってたわね」 「まあ、その、なんだ。ええやんか、もう、その話は」 「ふふふ。照れちゃって、可愛い」 「もう、ほんまに桜子ちゃんにはかなわへんわ」 「あらあら、もう降参?」 「勘弁してえな。それよりな。耳寄りの話があんねんけど」 いつまでも、REMをいじめるのも可哀相なので、桜子はその話にのってあげることにした。ただ、クスクスと笑いがこぼれるのは、止めようがなかったが。 「なになに?」 「先負学園の卒業生で、卓朗っていう有名な人がおんねんけどな……」 |