秋の日さざめく空を見れば |
そこだけ切り取ったような空が見える。少し薄暗い部屋の中に浮かぶ風景。楓はすっと目を細めると、静かに足を踏み入れた。時は正午。差し込んだ光が四角い日溜まりを作っている。 耕一は、ちょうどその日溜まりに手を伸ばすようにして午睡していた。ゆったりとした息遣いが部屋を満たしている。微かな衣擦れの音をさせて楓が傍らに正座すると、くふんと喉を鳴らした。静かな午後。ある秋の日の穏やかな日常。 楓は、窓の外を見上げた。さざめくような秋の空が見える。 あの日から、既に2ヶ月が過ぎた。 もっと、話をしよう………… 楓ちゃん、もっと、話をしようよ? こんなじゃ、お互いなにも解らないままだ…… ゆっくりと楓の瞳が耕一に向かう。 …楓ちゃん、俺のこと、嫌いかい?………… 楓の肩が、ぴくっと震えた。 俺が嫌いだから、話をするのが嫌なのかい?………… 少し、ほんの少し微笑んでいるようにすら見える耕一の寝顔。 愛しくて愛しくて……枕を涙で濡らした頃を思い出す。 もう、あんな思いはしなくてもいいんだ。自分にはこの人がいるんだ。幾度も幾度も、時には声に出して噛み締めた言葉を胸に抱いてみる。それだけでもうあまりの陶酔に目眩がする。なのにこの人は許してくれない。すっかりうろたえてしまい、まるで頭の中に霞がかかってしまうくらいに幸せな気持ちにならないと許してくれないのだ。 そのために耕一さんは、少しまとまったお休みができると、必ずこの家へ足を運ぶようにしてくれる………… どこかぼんやりとした足取りで飄々と玄関に現れると、迎えに出た千鶴に笑顔で話しかけ、梓とひとくさり憎まれ口を叩き合い、初音の頭を優しく撫でる。そうして、楓を見つめて穏やかに、 ただいま。 と云う。 ただ、それだけ。余計なことは言わない。 楓は楓で、耕一の姿を見て高鳴る鼓動を押さえ切れないでいるところへ、静かなその言葉が耳朶を優しく嬲るものだから、いつも泣き出したくなってしまう。 あ、あの……。お…、お…… そのせいで、今度こそはと意気込むものの、やはり常と変わらず、ただ紅に染まった頬を俯かせるばかり。 ほら、楓。早く部屋に案内してやりな。 そして、梓がじれったそうにそう急かすまで、耕一はそんな楓をいつまでも見つめているのだ。 り……り……ん。 季節外れの風鈴が風に揺れる。部屋へ入るなり、まだ片付けてないんだと耕一は苦笑したが、それは楓のささやかな我が侭。少しでも耕一の匂いを感じていたいという愛らしい抵抗。 くしゅん… ちいさなくしゃみと共に、耕一が寝返りを打つ。楓の細い指が毛布をかけ直すために柔らかに動いた。 り…ん…りりん……。 あの時……思えば、あの時、耕一に全てを話してしまう気になってしまったことは、予め定められた運命だったような気がする。 楓ちゃん! 待って、行かないでくれ! あれは……震えてしまいそうな……事実震えてしまった…予兆。その言葉。 喜びと苦しみが心を押しつぶしそうだった。聞かせて欲しくなかった……本当にそう思った。もう一度聞かせて欲しかった……本当にそう願った。 あの後……あの瞳……優しかった……失いたくなかった。だから、だから… …まるで、遠い過去に失った自分の一部を見つけたような…そんな不思議な気持ちなんだ…… なのに、あんなことを言うなんて……まるで、私が我慢できなくなるのを知ってたみたいに……
耕一さん 胸が……張り裂けそうだった…………
耕一さん……どんなに嬉しい言葉だったか。どんなに待ち望んだ言葉だったか。 どんなに恐ろしい言葉だったか………… あなたがあなたでなくなってしまうかも知れない……いえ…あなたでありながら、柏木の掟のために私の前からいなくなってしまうかも知れない……その時が近づいてきていることを知らせる言葉…… 堪えられなかった……
あなたの唇は……とても優しかった…… 愛されることが……こんなにも幸せだったなんて…… 力に目覚めた耕一を目の当たりにしたとき、楓は後悔した。呆然として、知らなければよかったと考えた。 必死で耕一を呼びながら、心が泣き叫んでいた。 父さんと同じに。 叔父さんと同じに…… 私を愛してくれた人はみんないなくなってしまう…… どうして!……どうして……! それなら私に愛してると言わないで……っ! それなら……私が愛してしまうのを…… でも それでもあなたを守りたい………… 千鶴の腕が深く自分を切り裂いたとき、よかった……それだけが頭に浮かんだ… …楓ちゃん…君の…君のおかげで、…俺は鬼を制御することができたんだ…… 遠くで耕一の声が聞こえ、安堵した。 …もしかして俺たちって、こういう運命なのかな…… いいえ……それは終わったの……微かな想い…… 楓ちゃん…… 寝言。一瞬、きょとんとして耕一を見た楓の頬が絵の具を流したように染まった。 やがて、ゆっくりとはにかんで はい…… と小さく呟きながら、耕一の胸に頬を埋める。 とくん…とくん…とくん… 耕一の鼓動がゆったりと耳に響く。 翌朝目覚めた楓の枕元で千鶴が泣いていた。何度も繰り返し、ありがとうと楓に呟いた。耕一を救ってくれてありがとうと鳴咽の中で呟いた。千鶴や梓や初音を救ってくれる人だったと、その人を楓は救ったのだと泣いた。楓は、千鶴を抱きしめて千鶴姉さんのおかげよと呟いた。 あの日もこんな風にいい天気だった。 居間の方で梓の声がする。 千鶴姉といい、楓といいどうして耕一を起こしに行ったらそれっきりになるんだよ… もう…!そんなこと言って邪魔しに行っちゃだめだよ!梓お姉ちゃん!… そんな梓をなだめる初音の声もする。 自分が何をしにきたかを思い出して、楓は少し赤面した。顔を上げ、耕一をじっと見詰める。 あたたかい…。夢じゃない…。本物の楓ちゃんだ…… あの朝、そう言って、優しく髪を撫でた耕一の手を思い出す。 悪夢は終わった。 満たされぬ想いは報われ、 黄泉路の際の約束は果たされた。 ありがとう、ありがとう。耕一さん…… なえやかな指を耕一の手に絡め、楓は溢れる想いを言葉に託す。 ありがとう…… 風鈴が微かに鳴る。痺れを切らした梓の声がまた響く。 耕一さん…… 軽く肩を揺らす指を優しく包んで、耕一がゆっくり目を開けた。秋空を見上げるような瞳に、楓が微笑む。 「耕一さん……お昼…………ん…」 ほんの少しばかり、日が陰る。甘い唇の香りを楽しむ恋人達に、秋の空はただ優しかった。 |