幸福の場所 #9

幸福の場所　#9　 <Farewell>

　　　　　　　　　　　　　　　story by くだから

 眠れない夜があるって初めて知った。
 外は青み、鳥の泣き声が聞こえてくる。
「まだ決心できないでいるのか？」
 自分に問い掛ける。
 もう何度も考え、何度も悩んだ末決めたはずだった。
 なのに････

「朝になっちゃったね･･」
 ベッドの上で写真を見ながら考え事をしている内に、夜が明けたようだ。
 ヘッドホンを外して立ち上がる。
 足が、震えてる････

「ごちそう様」
 やはり食べる気分になれない。
 それよりシャワーを浴びたい。
 頭がボオーとしてる。
 すっきりしたい。

「母さん、朝これだけでいいから」
 そう言ってトマトジュースを１缶冷蔵庫から取り出した。
 一気に飲み干したらシャワーを浴びよう。
 ずっと起きてたから何か気持ち悪い。
 汗も流してしまおう。

 いつもなら悩む服装だけど、今日は決めてある。
 あの日に着ていた服。
 鏡を覗き込み、大きく深呼吸をする。
「しっかりしろ」
 自分に言い聞かせる。
 時計を見ると、約束の時間にはまだ大分余裕があった。
 でももう出よう。
 彼女との待ち合わせに遅刻した事はなかった。
 最後まで････

 髪を乾かし整える。
 いつもなら化粧をするけど、今日はしない。
 一年前に私は化粧していなかったから。
 約束の時間までまだまだある。
 でももう出ようかな。
 彼はいつも私より先に来て待ってたから、たまには私が待ってあげよう。
 もう機会がないかもしれないから････

 約束の時間３０分以上前に着いたのに、彼はもう待っていた。
 一年前に私達が出会った場所で。
 私はゆっくりと彼の所へと歩いていった。

 彼女を目の前にすると、僕は何も言えなかった。
 言いたい事は考えてたのに、言わなければならない事もあるのに、頭の中は彼女と
 の思い出でぐるぐるとまわってる。

 彼は私の目の前でただ黙っている。
 悲しいけど、やはり彼の顔には苦悩の陰が見える。
 ああ、やっぱり駄目なのかな？
 彼の心に住んでいる、私じゃない女性の存在は気付いてたけど、いつか私だけを想
 ってくれると信じて、信じてたけど･･･。
 振られちゃうんだ、私？
 一人になっちゃうんだ、私？
 ･･･突然、心が荒れた。
 嫉妬が私の体を駆け巡る。
 目の前に立っている男に、言葉となって激情をぶつけそうになる！
 ･･･でも･･･私は何も言わなかった。
 言えなかった。
 それが私の理性なのか、それとも彼を好きな気持ちがそうさせたのか。
 ある人の言葉を思い出していた。
「きっと、別れを告げる人って、告げられる人と同じくらいツライと思うんだ。
  本当に好きだった人に、二人の時間の終わりを告げるんだから。
  だから俺はちはるさんをうらまない。彼女も俺と同じか、それ以上苦しんだと思う
  から･･」
 彼は悲しそうに、でも確かに微笑みながら私にそう言った。
 そうなの？
 私には信じられなかった。
 振られた人と同じくらい振る人が悲しむなんて。
 でも、私の好きな人も苦しそうな顔してる。
 それは、
 私のことを想ってくれてたから？
 私のことを好きだったから？
 私のことを大事に思ってたから？
 私と居た時間が大切なものだったから！？

  ･･･そうだよ･･･

 私は驚きあたりを見回した。
 勿論彼以外、誰も居ない。
 幻聴？
 でも「そうだよ」って聞こえた気がした。
 誰かが「そうだよ」って言ってくれた気がした。
 悲しみ以外の何かで、私の心が満たされていく。
 ･･･私の心から嫉妬は消えていった。

 彼女を目の前にしたまま、なにも言い出せなかった。
 時間の感覚がなくなっていく。
 頭はますます混乱して、心は動揺しきってた。
 嫌な汗をかき、唇は乾いていた。
 どうしていいかわからなかった。
 ここから逃げ出しそうだった。
 そんな、自我を保ってられなくなりそうな中、僕は･･･見た
 微笑んだ彼女の顔、を。
 あまりに悲しく、あまりに儚いそれは、とても美しかった。
 最後の最後の時に初めて見た彼女の顔を、僕はきっと忘れないだろう。
 そして、
「ごめん」
 そう一言。
 言わなければならないことはもっとあるのに、言葉になったのはその一言。
 彼女も一言だけ、
「うん」
 と。
 これから離れて行ってしまう二人だけど、お互いの想いが通じる程には時間を共に
 していた。
 ちょうど一年の恋。
 二人にとって長い時間だったか、短い時間だったか。
 女が最後の言葉を告げる。
「さようなら、相原くん」
 一年前と同じ呼び方。
「さようなら、黒川さん」
 もう名前で呼び合うことはない。
 でもきっと後悔しない。
 ２人で居た時間を忘れたりはしない。
 振り返り、最初に歩き出したのも女の方だった。
 それは、瞳に浮かんだ雫を見られたくなかったから？
 そして、その後ろ姿を見送る男の目にも涙があふれていた。
 涙を流すほどお互いを想っていた二人なのに、これから同じ道を歩くことは出来な
 かった。
 別れを告げたのは男のわがまま？
 それとも精一杯の･･･優しさ？

 その答えはきっと、２人だけが知っている。
 それは２人が受け取った、確かな悲しみの証しなのだから･･･

 キコ･･･キコ･･･
 頼りない水銀灯の灯りの下で、さとみはブランコをゆっくり、少しだけこいでいた。
 俺が近づくと小さく微笑んだ。
「ごめんね和紫、こんな時間に」
 その声ははっきりしてたけど、俺の顔を見てはいなかった。
「別にいいさ、起きてたし。それよりどうしたんだ？」
 さとみの横のブランコに座り聞いてみる。
 ･･･先ほどさとみから電話があり、こんな時間だというのに公園に居るっていうから
 心配になって来たんだ。
「うん･･･」
 さとみは何か言葉をつなげようとしている。
 俺は黙ってさとみから話してくれるのを待った。
「和紫って春に失恋したんだよね？」
 ちょっと予想外の言葉が出てきた。
「ああ、したよ。大失恋だった」
 でも正直に答えた。
「つらかった？」
「ああ、つらかった」
「･･･そっか、和紫もつらかったんだ･･･」
 さとみはそこで言葉を切った。
 しばらくの間、といっても多分数十秒経ったあと、さとみは空を仰いだ。
 風が、そっと通り抜けた。
 そして
「私、失恋しちゃった･･･」
 そう、呟いた。
「本当に好きだったんだ。
  彼と居て凄く楽しかった。
  彼のためなら何でもしてあげた。
  彼と居て本当に幸せだった。
  でも･･･」
 再びさとみは口を閉ざした。
 俺はただ、黙ってさとみの独白を聞いていた。
 多分、次の言葉は決定的な言葉。
「振られちゃった･･･」
 夜空を見上げたままさとみはそう言った。
 ジャラ･･･
 ブランコの鎖が揺れる。
 さとみは両手を強く握り締めている。
 きっと、失恋を自分で受け止めた後でも、それを第三者に告げた時改めて事実とな
 ってその人に襲い掛かると思う。
 多分さとみも今、再び実感が体を包んでいるのだろう。
 振られた、失恋したという事を。
 さとみは今にも零れ落ちそうな涙をこらえていた。
 一人で居たくなかった、でも他人に涙を見せたくない。
 そんな気丈さが今は痛々しかった。

 さとみって凄く優しい人だと思う。
 確かに口は悪いし、キツイ事もはっきりと言う。
 でもそれは彼女なりに、相手の事をよく考えた上での言葉だ。
 その方がその人にとっていい事だと思ったから。
 それが彼女なりの優しさだと思うし、俺もそれでいいと思う。
 優しさと同情は別物だ。
 でもそんなさとみだからか、自分自身に簡単に優しさを与えようとしない。
 悩み事があっても、最後の最後まで自分一人で何とかしようとして、苦しんでしま
 う。
 大好きだった男に振られてさえも、思い切り泣いて誰かの優しさにすがろうとはし
 ない。
 どうして？
 それはきっと自分の弱い部分を他人に見られるのが怖いから。
 さとみのあの優しさは、彼女が強い人だからこそ。
 その強さは彼女の矜持でもあるだろう。
 だから人に弱さを見せたくない。
 そして弱さを見せられないから自分一人で苦しみ、傷つく。
 だからもし、俺がこのまま帰ってしまってもさとみは一人で苦しみぬいた末、きっ
 と自分一人の力で立ち直るだろう。
 何も変わらないまま･･他人に自分の弱い部分を見せられないまま･･。

 俺はブランコから立ち上がった。
 そして、ゆっくり、優しくさとみを包み込んだ。
 さとみは驚いて俺から逃げようとする。
 でも俺は左手を彼女の腰にまわし、右手で彼女の頭を俺の胸に押し付けた。
「俺は見ないから。さとみの泣き顔を見ないから。だから･･･」
 耳元で囁く、
「だから、ホントにツライ時に涙を我慢しないで？」
 泣く事は恥ずかしい事じゃないよ。
「俺はさとみの友達だろ？ツライ時に励ましあうのが友達だろ？」
 俺の親友はそう言ってくれたよ。
 さとみの動きが止まった。
「さとみ･･･」
 他人に頼らないで生きるのも一つの生き方だ。
 それは強い人でないと無理だ。
 でも他人を信頼し、お互いに励ましあっていく生き方もあるはずだ。
 自分の弱さを受け入れられた時、もっと強く、もっと優しくなれるはずだ。
 さとみならそんな人になれるよ。
「健二･･･くん･･･」
 涙が、零れた･･･。

  涙が止まらない。
  わかってはいた事だけど、やはり悲しかった。
  十年の想いは今日砕け散った。
  彼女と別れた次の日に、別の女性に想いを告白するなんてとんでもない事だと思う。
  でも、いま言わなければこれからずっと言えない気がした。
  それにきちんと自分の想いを告げる事が、僕を好きになってくれたあの人に対する
  礼儀だと思った。

  今僕が感じている悲しみを、あの人にも味合わせてしまったんだね。
  ごめんなさい。
  でも後悔はしてないよ。
  あのまま一緒に居ても、あなたを傷つけるだけだったから。


  涙が止まらない。
  でもこの涙が止まった時、素敵な恋をしたってきっと思える。
  今は悲しいけど、きっとそう思える。
  そして僕だけの大切な思い出が、きっと出来上がる。
  そう信じてる･･･

《幸福の場所 #10 へ続く》
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