大阪は今日も晴れ雨曇りにわか雪
極私的日記風味身辺雑記

3月15日(日) 確定申告終わってすっきりすっきりぃ!って天気っ!(笑)


 やっとこさ、確定申告が終わった。後は税金を払うだけだが、その金がない。^^;;; ま、どうしうようもなかったら借金するしかないか。借金一杯かかえてるのに、税金を払わなくちゃならない日本の税制ってちょっと変?って感じ。:-)

 ま、それはともかく、JPNICのdomain-talkっていうメーリングリストで小中学・高校向けのドメイン区分を新設することについてちょっと熱い議論が戦わされている。学校ドメイン新設自体に反対はしないので、ずっとROMしてるけど、その中で気になった意見があるのでここに書く。ドメイン名自体に関する議論なら、当該のメーリングリストで発表するのが筋なのだが、本質はむしろ教育観であり、メーリングリストの趣旨から外れるので、投稿できないのだ。

 で、だ。未だにいるんだねぇ。「子供には特別の配慮が必要だ」って意見を主張する輩が。何の配慮もいらないとは言わないよ。そうではなくて、あたかも子供たちってのは天使の素材であって、「大事に大事に」特別扱いするのが当然って言いようが、余りに世俗を超越してて不可解千万極まりないっていうか。一体、この現状のどこを見ればそんな意見が出てくるのか本当、理解に苦しむ。いや、語弊を恐れずにいうなら、いい年をした大人がそういうことを平気で言える神経が理解に苦しむのである。

 一体いつから子供は天使になったんだ?

 そりゃ、自分になついてくる子供は可愛かろ。そういう子を「天使」と呼びたくなる気持ちまでは否定しない。俺だって自分の子供はもとより、親族・友人の子供は可愛いよ。でもね、ことは社会的な問題なんだ。社会的な問題に関して、社会的観点を持たない意見を吐くのは大人のやるこっちゃない。

 文部省は、西暦2003年を目処に、全国津々浦々全ての学校がインターネットに接続できる環境を整備するとぶち上げた。今回の学校ドメイン新設もそれを受けての話だ。

 JPNICの動きは当然のことだから置いとくとして、まず問題なのが、そんなことをぶち上げた文部省の政策判断に関して、誰も批判しないってことだ。

 いい? コンピュータってのは、今のところキーボードが使えないと満足な操作ができない。世の中には体の不自由な人がいて、そういうことに不便を感じる人々がいる。文部省が学校にインターネット接続環境に導入するのは、何も無償でネット環境を提供しようなんて善意だけから出たわけがない。当然それはカリキュラムに組み込まれ、子供たちは否応なく評価されることになるわけである。で、だ。体の不自由な子に無理からキーボード操作を教えるのか?既に論外である。いくら音声入力の技術が発達してきたからと言って、じゃあ今度は体に麻痺を抱えた子が問題になる。麻痺っていうのは例えば手だけですんでる子ばかりじゃなくて、手を動かすことはもちろん、体を動かすこと自体や発声にも不自由を感じている子だって少なくないのだ。そういう子はどうなるの?そりゃ、視線だけでキー入力ができるデバイスだってあることはあるよ。でも操作は凄く大変だ。それでも好きな子は頑張ってやるだろう。そういう子に機会を与えること自体は喜ばしいことかもしれない。でも文部省の政策は、当たり前のことだが、例外を認めない。いや、文部省が認めたって、社会の多くを占める「健常者」のディフォルトがコンピュータ操作を当たり前にするから、微妙に(或いは公然と)「普通」は備えている技能を満たせないという社会的な評価になって跳ね返ってくるのだ。

 ことはそれだけに止まらない。中学校には、bとdの区別すらできない勉強の遅れた子がいるのだといって、現在適用されている地域ドメインより学校専用のドメインの方が憶える文字数が少なくて都合がいいみたいな意見を出した奴がいる。

 正直に言おう。俺はキチガイが混じってるのかと思った。bとdが識別できない学力レベルの子に、キーボード操作を課し、大人でも理解できないことがあるインターネットの様々な約束事を教えるのか?狂気の沙汰である。落ちこぼしを増産せよと言ってるに等しい暴言だ。でも本人は子供たちへの配慮を主張しているのである!

 そんなこともわからない「自称」大人が増えている。困ったもんだ。大体、現在の教師は今でさえ教えることが多すぎてどう消化させるものか悩み倒しているというのに、さらにインターネットなんぞという新たな課題を文部省は課そうとしているのだ。教育の荒廃を叫ぶなら、そういうことにもちっとは目を向けろよと言いたい。こういうことはアメリカが先行して実験してて、いったんそれなりの結果が出てる。それ見りゃ何が起こるかわからんか?

 想像力の欠片もない。己の趣味を至高のものと考えて疑ってもみないし、ちょっとでも現実を調べようともしない。こういう「腐った大人」が子供たちを駄目にしている――つまり、まさしく「子供たちのため」を連呼してる中に「子供たちを駄目にする」輩が混じっているのだ。そりゃ殺人だって起こるわ。

# これで教師だったらしゃれにもならんなと思ってたら、しっかり学校の
# 先生だった。愛知県の教師だっていうのがいかにもアレ過ぎて、笑う
# に笑えない。(;_;)

 これが大人だったら問題はない。インターネットを知らなくったって、コンピュータの操作なんぞ憶えなくたって、そういう職業についてるんじゃなかったら生きていくのに何の障害もありゃしない。コンピュータができなくったって評価がマイナスになったりしない。(そういう仕事をしてる人は別だけどね)でも、子供たちは否応なくコンピュータの、さらにはインターネットの習熟度に応じて評価されるようになる。で、世の中には明らかにコンピュータなんぞに何の関心も持ってない人々だって存在するのだ。でもひとたびカリキュラムに組み込まれると、それは評価対象となり、ということは必然的に落ちこぼしを産み出し――事態はさらに悪化する。

 インターネットはいまだ未熟な技術の集まりだ。それはシステムが複雑である以上、現段階では避けられないことである。そろばん、電卓や自動販売機の操作とはわけが違うのだ。そんなものに子供たちを突っ込むこと自体が間違っている。いや、これがね、そういうものに関心の高い子が自主的に勉強しようってのを支援するだけならこういうことは言わないよ。カリキュラムには組み込まない。課外活動の一環として導入するんだっていうならね。

# 全国全ての学校にインターネット接続を提供するって、一体どれだけ予算が
# かかると思う?んなことのためだけに文部省が大枚の金を使うわけがないじゃ
# ないか。それこそ、子供でもわかる。

 ちょっと話は変わる。

 「教育」という観点から論じるなら、本来当然のこととして「教育」過程を修了した「大人」についても論じなくてはならない。普通はそんなことを言う奴なんかいないが、だから学校がどんどん奇形化していくのだ。

 「教育」っていうのは、実戦に備えた「訓練」である。で、普通は「訓練」過程にある奴を実戦の場に投入したりしない。なぜか? 極論すれば、第一線で戦ってる奴にとって、基礎的なこともできてない奴がしゃしゃり出てくることは、自分の生命を縮めることにしかならないからだ。もちろん、未熟な兵士なんてものは真っ先に殺されちゃう運命にあるから、それでは余りに可哀相という意見だってある。

 インターネットだってね、既にビジネスユースで使われてるんだよ。学術サイトだって事情は変わらないよね。研究に利用するためだ。そんなとこへ基本的なこともわかってない奴等がしゃしゃり出てきて、あっちこっちに迷惑をかけたらどうするんだ?よくわかってない未熟な奴(これを「初心者」というらしい)が大量に溢れ、でもって迷惑をかける。多少ならそれも教育のためということで我慢すべきだろう。でも、潜在的な参加者数を考えると多少ですむはずがない。それを実戦の場でもあるインターネットでやろうってか?教育者の傲慢もここに極まれりである。教育なんてのは、社会がその余裕を産み出して始めて可能なのであり、その余裕は、「大人」がこつこつ「仕事」をすることによって産み出されるのだ。

 そんなところにロクな管理もできやしないのに、子供を連れ込むな。

 ちなみに、最近、管理教育なんてことが盛んに批判されてるが、もののわかった大人なら今時の学校が管理なんぞしてるはずがないってことはすぐわかる。管理できないから校則という名の「法律」を厳格にしていってがんじがらめに縛るのである。管理というものがそんなものではないことは、少なくとも「組織管理」というものを真面目に考えている管理職なら常識である。で、昨今の所謂「管理教育」だが、あれは国家に法律があるのと同じなのである。つまり「一人一人を適切に管理、指導」してやることができないので、画一的な罰則を定めて、それを破る奴がいないかどうかだけを警らしてるのだ。共認に基づくルールと手抜きのための押し付けルールは根本的に意味が異なり、それを味噌も糞もいっしょとばかりに論じて、あたかも『管理』が悪いものみたいに言うのは自意識過剰のエゴイストの主張に過ぎない。どんな集団、組織だって「管理」がなけりゃ、ただの烏合の衆なのである。

 話を元に戻そう。何がどうなってるのか右も左もわからん奴に当事者責任能力を求めることはできない。だから少年法なんてものもあるのだ。で、だ。最近は、技術知識だけは豊富なのが増えてるから、それがインターネットでは非常に危険なことに繋がるってことはわかるだろう。生徒がどっかのサイトに悪戯でクラッキングをしかけたりしたら、一体誰がどう責任を取るつもりなんだ?言っとくが、絶対やる奴が出てくる。アメリカで実証済みだ。或いはそこまでいかなくても、メーリングリストやニュースグループにわけのわからんメッセージを垂れ流して顰蹙を買う奴なんて山ほど出てくるだろう。一体、どうするつもりなの?

 要するにね、「大人」の迷惑だから、訓練なら「訓練場」――つまり、実戦の場とは切り離されたところでやってなさいってことなんよ。何もインターネットにつながなきゃいけないってことはないでしょ?全国の学校間をTCP/IPで接続するんだってすごい規模のネットワークになるよ。そこでインターネット同様に運営すればいいじゃない。それでは教師が困るって?ううむ仕方ない。なら子供たちの使う端末と教師の使う端末をサブネットで分けて、子供たちの方は、学校間にしかパケットをルーティングしないようにすればよろしい。

# ううむ。さすがにそれはちょっと無理かな。やれば出来ると思うけど。^^;

 大体、「教育」って言葉が一人歩きしてるようだけど、目的を忘れちゃいけない。教育とはどこまで行っても、未熟な者を第一線で働けるように育てることが目的なのであって、大前提は「大人」が運営してる社会への適応、さらにできれば社会への貢献を果たすことのできる者を育てることなのだ。いくらインターネットが次世代のキーとなるといわれてるからと言って、どんな負担を社会に与えてもいいってことにはならないのだ。第一、インターネットはまだそこまで成熟した技術じゃない。ほんのちょっとしたことで混沌とした状況が出現してしまう、まだまだ発展途上の技術だ。取り扱いには随分と注意が必要なのである。

 ってここまで書くと次のような指摘が頭に浮かぶ。「大人だって性質の悪いのが山ほどいてるでしょ?なんで子供たちだけ締め出すの?」と。回答はこうなる。「馬鹿か?だから、そんな奴の尻馬にのって馬鹿なことをしでかさないよう、ちゃんと教育してから外に出せ」

 今でさえ馬鹿でスカで存在してること自体、犯罪のような輩が跋扈してるのだ。面白半分でそんな奴等の真似でもされたら、たまったもんじゃない。学校がきちんと「管理」できるんならともかく、ハナからそんなことが当てにできないんだから、仕方ないのだ。私だって本当はそういうところで「大人」だの「子供」だのと区別しない方がいいことくらいとっくに承知してる。でも現実はそうじゃないのだ。

 教育戦略は、10年後、20年後を見据えた上で立てなくてはならない。結果が出るのにそれくらいは簡単にかかるからだ。だから、遅まきながらも情報化社会とやらに向けて教育の方針を転換していくのも悪くはない。だけど、それを「大人」のフィールドでもあるところで無秩序にやろうっていうのは大問題なのだ。そこをわきまえておかないと一体何を教育してるのかってことにしかならない。

 子供たちにとって、「大人」達にとって、社会にとって何を「知識として」教育すべきなのかって問題は、誰でも口を挟むことができるくらい容易に論じることができる話題だ。でも「いつ」「どのように」という具体論になると安易な方策は許されない。子供にとっても「大人」即ち社会にとっても最善なルートを模索しつつ結論を出さねばならない。

 少なくとも、流行ってるからというだけで結論に一足飛びに行こうってのが甘いのだ。それこそ、国家百年の計を立てるレベルで判断を下さないと貴重な国力を徒に浪費するだけに終わる。だから、文部省がインターネット接続なんて安易なことを言い出したのは、実は非常に危険なことでもあるのだ。

 ……と今日は堅いばかりで話を終わる。いやなに、確定申告が終わってからこの土日、EVE - The Lost One をやってたのだが、前作とは段違いのヘボさなので、がっくりきてノリが悪いだけなんよ。剣乃氏がエルフに移籍してしまって、C'sはもう終わってるのかも知れない。^^;;;



3月7日(土) とってもお買い物日和でホントやんなっちゃう!って天気。


 何か書いてないと落ち着かない状態になってきた。俺も諦めが悪い。^^; でもよく考えたら昔からそうで、物を書いてるか、読んでるか、あるいは少なくとも何か考えてないと気が済まない。どうせ大したことを考えてるんじゃないんだから、別段ぽやっとしてる時間があってもよさそうなものなんだけど、どうしようもない。書いたり読んだりしてること自体が楽しいわけで、それでどうこうしようというつもりもない。そのせいで内容が極めて無定見なんだけど、まあいいか。(笑)

 それでも小説を書くときは、一応読んでくれる人のことを考えてはいるけど、所詮は素人、書きたいことの半分も表現できてない。もうちょっと真面目に勉強しておくんだったと最近ちょっとだけ悔やんでいる。:-)

 そういうことなので、仕事が忙しい上に、いよいよ納税期限が迫ってきていて帳簿を整理しなくちゃいけないんだけど、またこういうものを書いている。実は体調がよくなくてまとまった思考ができないから小説書いたり、仕事にパワーを集中させることができないということが原因としては大きいのだけど。^^;

# 仕事も小説も非常に消耗するのよ。

 さて本題(?)。

 先日、CDプレイヤが壊れたと書いたが、ここへ来てうちの電化製品のみならず、パソコンまで耐用期限を迎えつつあることに気がついた。先月は、去年買ったばかりのM/Bが見事にぶっ壊れてくれた。と思ってたら、WebサーバにしてるホストのCD-ROMドライブが壊れ、これを交換してやれやれと思ったら、電源のファンが寿命のようで、妙な音を立て始めた。最初は汚れが溜まってうまく回ってないのかとも思ったが、モーターがいかれてしまったようで、こうなったらもう電源を丸ごと取り替えるしかない。でも電源って結構高くて、ケースごと変えても大して値段が変わらなかったりする。で、今日調達に行ってきたところ。全く、ちっとも借金が減らなくて泣きたくなってくる。その上、よく考えたら7つあるHDDもそろそろどれかが壊れてもおかしくない時期に来てることに気がついて、ますます気が滅入る。(笑)

 うちのTVなんぞもう随分前からスピーカーがおかしくて時々片方から音がしなくなるし、LDデッキもそろそろヤバイかも知れない。(まだこれといった不調はないようだけど、最近あまり見ないから気がついてないだけかも)修理して使えるものなら修理したいが、新しく買った方がコストが安いので(修理しても割があうほど高級な製品を買ったことがないというのが問題か?^^;)、結局買い直しになるだろう。

 いや、別にここで物質文明に対する懐疑なんぞ議論しようと思ってるわけじゃない。歴史の必然に棹差そうとしてもそりゃ無駄ってなもんだ。生産様式の変転に伴い通過せざるをえない状況のひとつなんだし、やるならもっと基底的なところからやらないと。なので、そのことについてはまた機会を改めて。

 それはさておき、改めてみてみれば、結構うちにもモノがあることに気がつく。とはいっても狭いマンションのこと、大した量ではないけど、結婚してた時より確実に増えている。やっぱり俺も社会性が欠如しているようである。情けない。^^;

 コンピュータは仕事道具なのでこれを捨てることは難しいけど、TVだのCDだのLDだの、別段なくたって困りもしないものが狭い部屋に並んでるのである。これでステレオコンポでもあったら質はともかく、数としては完璧だ。(笑) こういうのに頼らんといかんというのは、既にかなり病んでいる。

 3年前、ジブリの製作した「耳をすませば」を繰り返し見た。合計で9回、本当に好きな人から比べたら週2程度のものでしかないんだが、同じ作品しか見なかったというのがちょっと自分でもアレ。「せん☆ぐら」なんぞ子供だましにもならないほど、切なさ炸裂であった。:-) おまけにとっても懐かしくて。特に杉村が。(笑)

 確か「STAR TREK:Generations」も同時期に公開されてて、トレッキアンというほどではないにしろ、長年のファンだったわりにはそっちは1回だけ。この違いは何?^^;

 それはきっと日常(操作されたものであることは間違いないにしろ)というものの存在感だと思う。ごく普通の中学生の女の子がバイオリン作りを夢見る男の子に出会い、自分のやりたいこととか悩みながら、だんだんと彼に惹かれていくという――言ってみればそれだけの話なんだけど、あの年頃の女の子や男の子を極力等身大に描こうという(それでも多分に大人の幻想が入ってるんだけど)制作者のスタンスがパチッとはまってしまったんだろう。

 で、ある意味不自然なのかもしれないけど、そこで描かれている子供たちには「モノ」が関わってこない。いや、バイオリンというものはあるんだけど、それは少なくとも「モノ」そのものではない。振り返って自分はどうだったかというと、やっぱりそうだったのだ。モノを欲しがったことがないなどと言うつもりはないが、現在のように気がついたら依存してる、あるいはそこまでいかなくてもモノの存在が前提、などということはなかった。社会に出てからもTVもラジオもない生活をしていたが、それで結構毎日充実してたし。(電話だけはないと困るからと当時の上司からつけるよう言い渡された覚えがある)

 でも今は少ないとはいえ、それなりに「モノ」を揃えた生活になってる。

 どこかにターニングポイントがあったはずで、しかも実につまらない些細なことのはずなんですよね。で、考えてみれば、ひとりになった寂しさを紛らわせるための代償行為という、実際、些細で恥ずかしいことだったり。^^;

 ひょっとして俺って、今はやりのアダルト・チルドレンって奴?

# そういや、エヴァにもはまったし。^^;

 あんまりそゆこと云うと真に受ける奴が出てくるんで、ここで否定しておく。

 俺は違うからなっ!
 俺はただのダメ人間っ!(笑)

 昔はフロイトかぶれが大勢いたが、いまやエヴァかぶれ。^^: したり顔で論じて、しきりに他人を貶めたい奴がいるのも変わらない。やな世の中だ。そんなに偉いと思われたいのかね?自分が特別でないとそんなに嫌なのかね?俺にはよくわからん。

 話を戻して。人との触れ合いっていうのは数じゃなくて密度だから、俺も実に希薄な人間関係しか結べてないのかも知れない。今がそうだというだけでなく、過去もそうだったような気がしてきてる。表面的な当たり障りのない関係。自分一人もがいても仕方ないことはわかってるので、それで存在不安を抱えたりはしないんだけど、情けない状況であることに変わりはない。

 喩えるなら、人にも負け、自分にも負け、「モノ」にも負けてるって感じ。(どこが喩えだ。^^;)モノが溢れてることが問題なんじゃない。モノに負けてしまってることが問題なんです。言い訳がないではないけど、いくら御託を並べたって事態は変わらない。

 とか云って、ここでシンジ君もーどに入ってしまうと何も解決しなくなってしまうし、何よりそれじゃまるっきりアダルトチルドレンなので、回避。(笑) ちょっとマクロな視点に立ってみることにする。

 結論から言う。これは個人主義が全く誤った観念であることの何よりの証左だ。

 じゃあ全体主義がいいのかとすぐ短絡する奴いるが、全体主義のような思考停止を好き好むのは、実はそういう個人主義者だけであって、本当に個人主義を嫌ってる奴は、全体主義も同じように嫌いなのだ。

 なぜなら、どちらも個性の圧殺であることに変わりがないからだ。

 かつてギリシャの暇賢人は「人間は社会的動物である」と語り、ドイツの貧乏学者は「人間は類的動物である」と見抜いた。人間は関係性によって自らの価値付けを行い、行動原則を身につける。豊かな対象性こそが真に創造を担うものであり、個性と呼ぶに値するものなのだ。天才の域にまで達してしまうともはや常人には窺い知るべくもない境地に達してしまうので、一概にこういうくくりで述べられるものではないが。

 全的な関係性を否定し、存在の立脚点を「個」に置いた段階で、負けは決定している。外界はすべからく敵対するものとして認識され、そこには妥協と対立しか生まれない。

 存在の安心感は、他者しか与えることができないが、「自己と他」という二元的価値観しか持てない個人主義では、その他者が常に警戒すべき外界の一部でしかなく、それゆえどこまで突き詰めても不安は解消しない。アダルトチルドレンとやらが悶々と自分の居場所について悩みつづけるのも当たり前なのだ。

 そんなものは、もはやどこにもないんだから。

 かつては家庭だけは例外だと考えることができた。だけど個人主義はそういう曖昧さを許さない。結果、自分を傷つけない、自分に要求したりしない「モノ」に囲まれ、関係を疑似体験することで、自分の関係指向を騙すしかなくなる。家庭にいても居心地が悪く、自己に従属するモノに満ち溢れ、家族とすら隔離された空間へ逃げ出したいと願う。でもそれは望んでいるもののリアリティに全く及ばないわけで、かくて際限のない泥沼悪循環に陥っていく。

 ヤマアラシのジレンマは有名だが、まだお互い歩み寄ろうとしているだけ建設的だ。そんな努力は放棄して、モノでごまかす生き方がすっかり身に染みついてしまっているのが憐れな現代人の姿。

 結局、俺もそういうのと同類だということで、刷り込まれた認識から一歩も外へ出ていない。ひとつの認識へのこれほど偏執的な固執は自分でも辟易するくらいで、臭くて仕方がない。この歳になってこの体たらくとはと、すっげえ落ち込み。

 「耳をすませば」の話を出したが、改めてLDで見直すと、雫や聖司の方がよっぽど人生体当たりで生きてるような気がして、中学生に負けてどうすんだとか思って余計に落ち込んだりもする今日この頃。^^;



3月4日(水) ま、それなりに爽快にはなれそうな天気。


 CDプレイヤーが壊れた。再生は気まぐれだわ、コントロールパネルはお茶目な動きをするわ。芸としては面白いが、笑うためにCDプレイヤーを飼っているわけではないので、早々に引退して頂き、とはいえお金もないので、所謂CDラジカセを買う。ついでに、ポータブルMDプレイヤーも買う。嬉しがって色々と編集して遊ぶ。結果、訳の分からん選曲基準にのっとった不思議なディスクが出来上がる。いかにも俺的。:-)

# Polonaise "Heroic" と WOW WAR TONIGHT を並べるところが特に。(笑)

 これで長い間奉公してくれたディスクマンにも暇を取らせることができる。ちょっとだけ物思いなんぞしてしまった。

 3年ほど前、体を壊して会社を辞め、1年ほどぶらぶらしてた。その時はかろうじて入院は免れたものの、精神的には減り込み続ける毎日。じっとしてるのがいかんのだろうと、鈍行で西日本を一周する旅行を計画を立て(つうか、思い付きの行き当たりばったりと云ったほうが正しいけど。^^;)、電車に乗ってる間、暇をつぶすために買ったものだった。

 持っていったCDは数枚に過ぎず、途中で買ったCDも3、4枚で、同じものを繰り返し聞いてたのだが、電池を取り替えてやれば、文句も言わずにせっせと同じ曲を再生し続けるのを見ていて不思議な感慨を持ったものである。

 まだ日本が貧しかった頃――そんなに昔じゃない。たかだか30年ほど前までは、日本は貧乏な国だったのだ――豊かな生活とは、衣食の不自由のないことであり、便利な道具を駆使して贅沢にも余暇を持つことだった。

 そして日本はそれを手に入れた。貧乏な人々はいても、日本という国が物質的に「豊か」であることに異論のある人はいないだろう。食い物を含めて消費財は、いかな個人の自由と云えども、比較考量することなど想像もできないくらいにバラエティ豊かになった。

 でも代わりに我々は、心の拠り所とするものを次々と捨ててきてしまった。残ったのは、皮相で見かけだけのゴミにもならない「自意識――肥大した自我」だけ。それは人生を意味あるものにすることを拒み、豊かな愛情を否定し、物質だけを餓えた狼のように貪るだけである。

 今や、近代思想がその代償として差し出した「愛情」ですら秤に掛けられ、値をつけられて取り引きの材料とされる始末。近代個人主義は文字通り怪物と化し、自らその産み親だと思い込んできた資本主義にそのツケを払わせている。

 そして、本来なら多大な献身が必要であった行為も機械が安直に代行してくれるわけで、密かな感謝と連帯感、さらに云うならば相手の愛情を確かなものとしれくれていたことも、無感動な風景の一事象に過ぎないものとなってしまっている。そう、もはや「行為」ですらないのだ。日常に上ることすらない「ただの事象」、穏やかにしかし断固とした「無視」でしかない「ただの事象」。なにせ、金さえ出せば、何の苦労もなく意識すらすることもなく手に入ってしまう「同等品」があるのだから、そうなるのもむべなきこと哉。

 だけど、一度肌に慣れた「日常」が崩壊してしまうと、実はそれが幻想であることに気がつく。多くの機械に囲まれ、大量の物質を所有しながら、必要なものは自ら放棄しているのだという現実。

 話は変わるが、私はアニメが大好きである。ゲームだって好きだし、小説はもちろんのこと好きだし、哲学書や宗教書だって好きだ。(その割に、大した量を読んでないけど)

 ところが、就職してから34になるまでは特にアニメを見ることもなかったし、ゲームだって大してしたいとも思ってなかった。無論、大学に入るまでは好きで好きでよくTVにかじりついてたけどね。^^:(ゲームはパソコンなんてものがまだ一般的じゃなかったのでしたくても大したものができなかった。テーブルトークは仲間を選ぶしね)

 それが再燃したのは、当時のカミさんが娘に見せるために借りてきた「セーラームーン」のビデオだった。既に行動が常軌を逸しつつあるところがあったらしく、精神的にもかなり追い込まれていた状態だったんだろう。ちょうど最終2話の巻だった。
 気恥ずかしい話だが、家族が寝静まった中で飯を食ってビールを飲みながらそれを見た私は、ほろほろと泣いたものでございます。そこには変わらないものがあったから。変わらないのに忘れてたものがあったから。現実は辛い――辛いこともある。子供の頃には想像もできなかった修羅場だってちゃんとある。でもなんでそんな現実を生きてるんだろう?ただの惰性?それとも何かの理想のため?そんなはずはない。現実を辛いものとしているのは、そこにある価値から目をそらしているからだ。本当は辛くなんかないんだ。

 現実は、苦しいこともあるかも知れないが、少なくとも辛いものじゃない。

 だから生きてられる。でもそのことに気がつかない。目の前にあるものなのに、わざと無視してるから、そんな不自然なことをしてるから「辛い」だけ。

 「ああっ女神さまっ」を知ったのは、そのちょっと後。認めたくないけど、現実にはもうなっちゃってるじゃんということを逆手にとった設定。主人公(?)の基に舞い下りてくるのは、もはや人間の女じゃうそ臭いとばかりに「女神さま」。でも彼女の行動は、誰もが人間の女の子に望むことばかり。何のことはない。マンガやアニメの世界ではとうに現実に見切りをつけてたのだ。

 だから、仲間の、友達のために献身することは、前世の因縁がないといけないし、あるいは人間であってもいけないのだ。

 いやいや、その傾向は、聖書の時代から、いやホメロスの時代から、何のギルガメッシュだってそうじゃわいと言いたい人がいるかも知れない。でもそれは見方が余りにずれている。肝心なキーワードを都合よく無視してるから、それで反論になると思ってるその底の浅さがいとをかし。

 とまれ、アニメを見るようになり……そうして、「同級生2」に出会った。そりゃそんなのやってるのなんてヲタクだって云う奴はいるよ。言いたい奴には言わしとけ。ありもしない現実に幻想を見てるだけの憐れな存在だって自分で気がついてないだけなんだから。

 で、だ。ここにもいるじゃない。そう思った。かつては日常の中に手にしていた確かな絆を失ってしまい、でも一生懸命それをつかもうとしている女の子が。18禁ゲームはそれまでもやったことがなかったわけじゃないでもないけど、昔のはとにかくひどかった。エロゲーと言われても仕方ないシロモノばっか。とにかく「ヤル」だけ。でもこれは違った。もちろん所謂恋愛シミュレーションなんてのが他になかったわけじゃないけど、私が最初に触れたのがこれだから仕方ないのだ。

 もう夢中になってやった。どういうシナリオを用意してるのか、つまり皆が何を望んでいるのか知りたかったから。当然、自分が何を望んでいるのかを知る意味も大きかったのは言うまでもない。

 で、いずみが、唯が、姫に可憐がいた。何だ。つまり皆同じことを望んでるんだ。

 そして「To Heart」。もう生き物ではだめ。ということで今度はアンドロイドだ。でもやはり望まれているのは人間の女の子。でも周りにはいない。いたとしてもまずお近付きにすらなれない。悲しい現実。

 どうしてこんなことになったんだろう。誰もが望んでいるのに、手に入らない。物質的には生きることが楽になって、それで全てが安直になってしまったという大きな誤解。

 それより悲しいのは、ゲームや物語の中ですら人間の振る舞いとしては「夢物語」になってしまったことだ。しかも、近代が唯一許した「生物として最低限は必要な性衝動」の具現した「恋愛」においてですら、そういう状況なんだってことが。取り戻すには、もはや手後れなのだろうか?

 人間は社会的動物であるという言葉は、太古より指摘されてきたことである。群れを作り、社会を形成し、その中で相対する関係性を縁に人類は生きてきた。おそらく、私権の誕生は必然だったのだろうし、歴史的には必要な過程だったんだろう。

 でも今我々はひとつのピークを迎え、しかも明らかに閉塞した状況にある。声高に心の豊かさを叫び求めながら、目の前の「価値ある事実」に気づいてしまったら、自分がなくなってしまうかのような強迫的偏執思考にしがみついて。

 衣食足りて礼節を知ると中国の賢人は語った。でもそれは「個人」を鎧で覆うだけで、何ら本質的な解決策じゃない。それよりは躊躇なく目の前にあるものを認めて、それを掴み取る方が遥かに賢いし――何より人間的だ。:-)

 もうわかってるんだ、きっと。人間には感情的共同性、共認の絆が必要だってことを。それは物質を含め、ありとあらゆるものにまとわりついてるんだけど、それを敢えて無視して、あたかもそんなものなどないかのように振る舞ってきたのが「近代」という時代なんだと。月野うさぎも、ベルダンディーも、いずみも姫もマルチも千歳も、それを与えるために、それを知らしめるために存在を許された寄り代なんだってことを。

 追い込まれた精神状態になければ、私は何も気づかなかっただろうけど、3年前のディスクマンは黙々と旅の無聊を慰めながら、私にそんなことを考えさせ、今また、お前は何を望んでいるのかと問い掛ける。

 機械になんぞ慰められてて、あんたそれでも真っ当な人間かい?って。

 俺は若い頃、サルトルを散々馬鹿にしてたんだが、同じ穴のムジナ(と言うと大変傲慢だな。^^; 偉大な思想家に言うべき言葉ではないけど、大体のルートを指して言ってると思いねぇ)であることがすっぱりばれちまって本当は小心翼々。もちろん、シンジ君を笑うなんてとんでもないことでございます。

p.s.

 俺が男だから、女の子を対象に述べてるけど、逆も真なりっていうことを世の男どもは肝に銘じなくちゃいけない。

 いや、事態の本質は男にあるのだということ、性的過程は女が担い、社会的過程は男が担うという生物学的要請からすると男の方が罪が重い――

 ということをね。



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