ちゆ12歳が元ネタ。
毎日新聞は男子大学生がキライ?
ネタ元のネタ元。
女子大生に聞く:今時の男子は「幼児的、バカ、無責任」
馬鹿がいる。証明不要の馬鹿がいる。元毎日新聞社編集委員の大学教授がどうやら毎日新聞に紹介したらしい。朝日は売国奴、国賊と一部で認識されているが、毎日新聞はどうやら全社で脳みそが蕩けているようだ。マスコミのプライドも何もあったものではない。元になった記事を引用すると、
女子学生は、いま時の男子学生をどう見ているのか? 大阪国際大学人間科学部(守口市)の心理コミュニケーション学科の12人が、女子学生を対象にしたアンケートを、「男の値打ち 女の目」と題した卒業論文にまとめた。結果は、「幼児的、無責任」など、どうも評判はよろしくない。【梶川伸】
どうやら女子学生の意識調査を行なったらしい。どういう意味のある試みなのかは知らないが、まあ、調査自体はどうでもよい。いかに高度な統計手法を駆使し、玄妙な分析手法を適用したかは不明だが、ネタに困った女子大生がでっち上げた程度のものだろうことは記事の続きからも想像がつく。
全体では、マイナス回答の総計が8702で、プラス回答の7659を大きく引き離した。これらから、男子学生の5悪を「幼児的、バカ、無責任、無神経、うそつき」とまとめた。そのうえで、「大人になりきれていない」という声が強いと分析している。やる時はやる、責任感がある、といった好印象の回答もかなりあったが、女子学生の「期待値」も入っていると見ている。
この結論から読み取れるのは、頼りになる男もいるけど、多くは人間として最低ね♪という意見であろう。しかし、内容が示されていないため、一体、何を根拠にそんな結論が出たのかちっともわからない。
宮本教授は「男子学生は幼いという印象を持っていたが、やはりそうか。他人を理解しない、主体性がないなど、大人になりきれていない。危機には違いないが、学生自身が危機感を持っているところに救いがある」と分析している。
出ました。馬鹿の元凶。こりゃまるで、女子学生に媚びるただの中年ですな。およそ昔から若者に媚びる大人には碌な人間がいませんが、元毎日新聞編集者といえば、リッパにマスコミ人。やはり碌なものではないようです。大体、シュメールの頃から「今時の若者は…」みたいな年寄りの愚痴は世代を越え何千年も繰り返されているのですが、二十歳を越えたばかりの小娘の戯言を無批判に迎合するこの方の言説は既に愚痴ですらない。少なくとも社会人としての大人なら、このようなペーパーを見せられたら、憤慨して当然である。記事を読む限り結果の解釈が恣意的で、信用が置けない。そもそも何か「論」を立てているところもありそうにない。アンケート集計などただの作業である。どこに「論文」としての体裁があるのか(価値云々は最早問わない)。一体何を教授・指導していたのか、業務実績が問われてもおかしくないようなものが提出されたのである。なめてるのかという憤りくらいは感じないのであろうか。
おまけに、「危機である」と認識してるにも関わらず、そのような事態を「救いがある」の一言で纏めてしまい、そうなるに至った歴史的、社会的な構造分析なり、現状の突破口なり、そのものズバリの解答までは求めないものの、せめて方向を示すような意見を述べるのが知識人のレゾンデートルなんだが...或いは、記者が記事を纏めるさいにそういう話をオミットしたのなら、マスコミが自らの存在意義に自分で止めを刺すようなマネをするとは...所詮は自称「クオリティペーパー」ということか。
まったく、現代マスコミの本質でも触れたことだが、マスコミの煽動は、止まることを知らない。別に世の男子学生諸君が全て「頼りがいのある、責任感に溢れた漢達」ばかりである。何てことはありえないが、「卒論」(も一応論文ではある)に値しないようなアンケート調査でも世間を煽る事ができるとなったら、脇目も振らずに飛びつくその有様は、餓鬼が食い物を奪い合う姿を髣髴とさせる。そして彼らは決してその責任を引き受けることがないのだ。さらに嘆くべきは、かのお方が「大学教授」だということである。一応日本の知識人を代表する職種でもあるのだが。
概ね70年代を境に、日本は豊かさを享受する時代に入った。それまで「私権」の獲得に血道をあげ、つまりは「豊かな生活」を唯一の価値観として日本人は遮二無二学び、働いてきた。しかし一旦それが実現されてしまうと、私権価値観は求心力を喪い、しらけたムードあるいは享楽的なムードが社会を覆った。「私権」は絶対的な価値観たりえず、価値観なくしては判断はおろか、そもそも生きていくことすらできない生物である人間は、生活に充分な程度には達成した「私権獲得」から次の目標に向かい始めた。ある時は「心の豊かさ」で代表される対象の消費として表れ(小はレジャーへの投資の増大という形で、大はボランティア、NGO活動への参加という政治方面への流れの形で)、またある時は新興宗教の勃興という形で現われた。一方で確固たる価値観の喪失は、家族や地縁共同体の徹底的な崩壊を齎し、相対主義の跋扈を許し、極端な個人主義的生活を生み出し、自立への基盤となっていた有形無形の支援を根こそぎ奪い去っていった。
一時期、「価値多様化の時代」とマスコミが報じたこともあったが、多様化したのは精々が消費財であり、男の、そして女の、活力の源というべき価値観は多様化どころか、マスコミや知識人の繰り返すマッチポンプのおかげもあって、姿を潜め、現代はかろうじてその残滓をかき集め、体裁だけでも留めようとしている状況に過ぎない。
このような時代だからこそ、新たな価値観、新たな認識を引っさげ、輿論をリードし、社会を統合することのできるる人材が求められるのであり、まさしくその中核を担うのが、そのような認識を産み出すことを社会から期待されている職業階級、即ち、「知識人」とか「大学教授」とか言われている者たちなのである。しかし、その本来の責任を放棄し、目先の現象事実に安易に迎合し、知的活動を忘れてしまっているのが、現代知識人の姿である(皆が皆そうではないと信じたいが)。その端的な例が、件の教授であろう。
学生が大人になりきれず、幼いままであるのは、成熟した社会人へ育つことを強制する社会的圧力がないからである。他人を理解しないのは、そのような機微を察する体験を積み上げる場が失われているからである。主体性がないのは、意識せずとも社会に受け入れられている価値観が喪われているため、判断を下すことが昔に比べて極めて難しくなっているからである。それは誰の責任か?それは、今社会を動かしている大人の、つまりは、社会人の責任である。それを小娘の色香に迷ったのか、ものわかりの良いところを見せて点数を稼ごうとしたのかは知らないが、「(女子)学生自身が危機感を持っているところに救いがある」などという職務放棄、敵前逃亡に等しいまねをしていて、どの口が語っているのか。呆れて者も言えない。将に「(自分を取り巻く)他人を理解しない、(女性の不満に迎合するだけで職業に対して)主体性がない」
加えて深刻なのは、件の卒論をものにしようとした彼女たちは、なぜ「女の値打ち 男の目」も併せて論じようとしなかったのか。彼女たちだってわかっていないはずはないのだ。
研究メンバーの川岸真紀さんは「目的を持たず、何となく生きている人が多い」と語るが、「女子学生も一緒と思う」と付け加えた。
と記事にもあるからだ。ではなぜ?ここからは完全に臆断になるが、つまりこういうことだと思う。
バカから脱却するには、常に知的好奇心を持ち、様々な話題に乗り遅れないよう学問を弛まなく行なわなくてはならない。無責任を回避するためには、時には自らの生活基盤を犠牲にしなくてはならないこともある。そこまでいかなくとも、それなりに経済的、精神的なリスクを引き受ける覚悟がいる。うそつきと言われたくなければ、言行一致は常に自分に課していなくてはならない。当の女性たちは「社会的責任を自覚し、進んで社会を運営する責任を引き受けることができるほど大人で、頭脳明晰、長幼を弁えた配慮を示すことができ、嘘は吐かない」のか?そんな女性が日本の女子学生の過半数を超えているのか。考えるまでもない。現実にそのような女性は極めて稀少であり、目糞鼻糞を笑うの類である。非難は馬鹿にでもできる。無論、誰もが衛の蘧白玉や斉の晏嬰、鄭の子産になれるわけではない。そして、そんなことなど考えているはずもない。いくらなんでもそこまで求めているとは思えないが、自ら身を修めることは、精神的困難に挫けないということだ。そんな面倒は御免蒙りたいというのが心情であろう。
つまり、自ら努力はしないことを隠して、要求だけは突きつける。
そんなとんでもない態度を隠しておこうという意識が働いたからではないか。
あるいはこうも考えられる。
豊かさに慣れきった男たちが、モラトリアムと嘯き、切磋琢磨を忘れ、ある程度は満たされた物欲に安住して責任感や配慮という煩わしさから逃れようした結果、肉体的にはともかく、精神的には逞しさを失い、易きに流れて行くばかりなので、子を産む性としての危機感が募ってきたため、男の「ケツ」を蹴り上げる行動に出た。…ありえない?(^^;) しかし、男は精神的に女に依存するが、女は物理的に男に依存するという点を考えると、より切実なのは女性の方である。ありえない話ではない。実際問題、男はそこまで衰弱している。
しかしいずれにしても、「目的を持たず、何となく生きている人が(男女を問わず)多い」というのであれば、「女の値打ち」も論じるべきであろう。先にも述べたが、戦前、そして、それより遥か昔から高度経済成長時代にかけての「物的な豊かさの追求」が強固な価値観であった時代、つまり「貧しさが当たり前の時代」、少なくとも男女問わず「目的」はあったし、二十歳過ぎて幼いなどということはなかった(一部特権階級除く)。繰り返しになるが、ならばどうすれば良いのか、その回答を示すのが、「知識人」の存在理由であり、その普及に力を割くのが「マスコミ」の存在理由である。それをあっさりとスルーしてしまう現代「知識人」や「マスコミ」は何のために存在しているのか。
そんな無能、無気力なものにはさっさと見切りをつけて、自ら新たな価値観、新たな認識を求めて試行するべきときではないだろうか。秦の商鞅は「学者は所聞に溺れる」と言ったが、観念と知識で飽和した頭に、突破口を見出し、新たな地平へ人々を導くことなど、西から太陽が昇ってもできないのである。