An Episode in The Known Worlds' Saga ---《 The Soldier 》 外伝


光の真名
ひかりのまな

プロローグ 『光と闇の幕開け』

… B-Part …


 ノウンワールド中央評議会議長室。紫煙の立ち込める中、激しい議論が続いていた。
「14255人もトレイニーを引き抜くだと!? 一体、どこからそんな数字が出てくるんだ!」
「全部で251649の次元にコマンダーかリサーチャーかを派遣しますから、全体の人数から見れば、微々たる数ですが」
「いくら人手が足らんからと言って、そんなにトレイニーを使えるか!」
「しかし議長」
「それに例えば、何だこの子は! まだジュニアステップを終えたばかりではないか!」
「人事局も最善を尽くしたのです。ご存知の通り、次元遷移の際に考慮しなくてはならない特性のために、辺境ほど適合する人材がいないんです」
「そんなことは、わかっとる!」

 不機嫌に言い放った議長は、何本目になるかわからない煙草に火をつけた。

「中央の他に、各次元の抱える軍・情報局・探査局、その他政府機関に勤務する職員まで派遣できるんだぞ! 本当にトレーニングを受けた人材を、全員もれなくチェックしたのか!?」
「もちろんです」
「議長、もうこれで決裁するしかありません。一般にまで対象を広げるわけにもいきませんし、第一、時間がかかりすぎます」
「むう……」
「次元世界存亡の危機だとおっしゃったのは、議長ではありませんか」
「しかしだな、トレイニーを使うにしても、せめてシニアステップ修了以上でないと」
「お言葉ですが、アミア・フロイラインは、ジュニアステップを終えて間もなかったトレイニーでしたが、立派に役目を果たしました」
「………」

 アミア・フロイライン。その名前を出されて、議長は言葉に詰まった。彼の61世代前の祖先であり、彼はそのことを密かに誇りに思っていたからだ。今や、伝説となった−2000年前も伝説だったのだが−『ソルジャー』と共に、敵を殲滅した、優秀なトレイニー。一族の長老が、幼い彼にその様子を何度も話したものだった。

「議長!」
「わかった。やむをえん。オールグリーンだ!」
「ありがとうございます。では、コマンダーとリサーチャーの人選はこれで決定ということで、関係部署に流します。次に装備ですが……」




「それじゃあ、ここでキーボードを台本通りに操作してね」
「はい」
「大体こんなところだけど、わかるかな?」
「何とか。でも、凄いですね。わざわざ用意したんですか?」

 チャンネル9のスタジオで、ディレクターから指示を受けていた可憐が、実際に稼動しているパソコンを見て尋ねた。

「まあね。プロデューサーが、何かと言うと、『本物志向だ!』だろ。これだって、EDP室の奴に頼み込んでさ。台本にあるからってんで、本当にインターネットに繋いじゃうんだもんな」
「あは。知ってる。最近流行ってるんでしょ?」
「そうそう。だから、ドラマにもご登場と相成ったわけだ」
「コンピュータを颯爽と扱う高校生か。う〜ん、役とは言え、柄じゃないなぁ」
「ははは。リハで見てたら、意外と知的で格好良かったよ」
「うふふ。お上手なんだから」
「それじゃあ、そろそろ本番いこうか」
「はい」
「よ〜し! スタッフは、セットから出ろ!」

 ディレクターの掛け声で、バタバタと慌ただしい足音が響く。洒落たマンションの一室といった感じのセットには、可憐一人となった。

「カメラOKか?!」
「OKです!」
「よ〜し、本番スタート!」



「いずみちゃん!」
「悪い、悪い。思ったより打ち合わせに時間がかかっちまって」
「平気よ。まだそんなに遅いわけじゃないから」
「じゃ、行こか」

 友美といずみは連れ立って歩きはじめた。友美が少し後ろからついていく形だ。小柄で童顔のいずみと並んで歩くと、まるで姉妹だと言われてから、友美が気を遣って、そうするようになっていた。

「新しい喫茶店って言ってたけど、何か珍しいものでもあるのか?」
「どうして?」
「友美が喫茶店に誘うなんて、初めてだからだよ」
「そうね、珍しいと言えば、珍しいかしら」
「何があるんだ?」
「今はやりのインターネットカフェってとこなの」
「インターネット……? なんだそれ?」
「コンピュータを使って、色々な情報にアクセスできるのよ」
「げ、早い話が、コンピュータのお勉強か?」
「そういう訳じゃないけど」
「やれやれ。珍しい事もあるもんだと思ってたら、やっぱり勉強方面か」
「じゃあ、やめる?」
「お茶くらい飲めるんだろ?」
「そりゃ、喫茶店だもの」
「じゃ、難しい事は全部友美がやるってことで、つきあったげるよ」
「うふふ。私もちょっとだけしか、やったことないけど、結構面白いわよ」
「はいはい。期待してます」
「まあ。気の無い返事」

 そこで二人は一緒に笑った。



「お兄ちゃん? 入るよ」
「ああ」

 先程のじゃれあいは、結局、龍之介が押し切られて、家に居るときだけ、という条件で、トレーナーを着るはめになっていた。

「何してんの?」
「パソコン通信……でもないな。今流行のインターネットってやつだ」
「へええ。唯にも見せて」
「どうせ何のことか、わからないくせに」
「何か、言った?! お兄ちゃん?」
「何でもねえ」
「わあ、綺麗」

 画面を覗き込んで、唯が驚く。よくある"World Wide Web"の画面なのだが、パソコンの画面に、カラフルな色で表示されるウィンドウなど、見たこともないらしい。

「いいか、ここをこうするとだな……」

 龍之介の手がマウスを操作し、ボタンをクリックする。

「あれ、英語だ」
「アメリカのホワイトハウスが流してる情報が、たちどころに手に入るってわけだ」
「え、これ、アメリカに繋がってるの?」
「世界中どこにだって繋がるぜ」
「すご〜い!」
「お前、よくテレビ見てるくせに、本当に知らないのか?」
「唯は機械が苦手だもん」
「そういう問題かよ。インターネットっていったら、今流行なんだぜ」
「いいの。その何たらネットより、お洗濯ネットの方が役に立つもん」
「比べる問題か」



 インターネットが、まだ、アメリカのごく一部の研究者だけのものだった時代から待機している、特殊なプログラムがあった。一般に、ワームと呼ばれ、ネットワークに繋がったコンピュータに、次々に広がっていく性質を持っているそのプログラムは、システム管理者に見つかる事もなく、接続されるコンピュータに伝染しては、ただその時が来るのを密かに待ち続けていた。

 誰がそのプログラムをネットワークに仕掛けたかは、わからない。あちらこちらへ伝染を続ける中で、オーナーに関する情報は失われていた。20年程前のタイプと互換性のあるコンピュータ上に存在して、ネットワークを監視していることを考えれば、その頃作られたものであることはわかる。だが、それ以上の情報はない。ただ、非常に巧妙に作られていることだけは、はっきりしている。何より、その間、誰もそのプログラムの存在に気づかなかったからだ。

 それは、あるメッセージがネットワークの中を流れるのを待っていた。時が来れば、それを作成した人物が予見した通り、必ず見つかるはずだった。そして、如何なる運命の導きか、今、とうとうそれは、待っていたメッセージが流れてきたのを知った。



「今度は、最新のファッションをチェックしてと」
「そんなのもわかるの?」

 唯と龍之介は、先程から、あちらこちらのホームページを覗いている。

「あれ、これなあに、お兄ちゃん?」
「あ?」
「ほら、ここ、何か点滅してるよ」
「あれえ、こんなところにウィンドウを開いた覚えはないんだけどなあ……」
「なんか書いてあるよ」
「なんだ?」



 八十八駅前にある、インターネットカフェ。友美といずみは、喚声を上げながら画面に見入っている。

「へええ。ルーブルにある美術品まで見られるとは思わなかったよ」
「便利でしょう。でね、ここをこうクリックすると……」
「なんだ? フランス語か?」
「そうだけど、作品の詳しい解説が読めるのよ」
「私は、フランス語なんか、知らないぜ。友美、読めるのか?」
「まさか。こういう情報も見られるっていうことを見せたかっただけよ」
「なんだ」
「ふふ。それじゃあねえ、次は……あら?」
「どうした?」
「ほらここ。知らない間にウィンドウが開いて、点滅してる」
「なんだろう。何て書いてあるんだ?」



「今日は、まだアクセスしてないようね」

 カメラが回る中、可憐は演技を続けていた。ほんの数秒、キーボードを叩く音だけが響く。

「やっぱりここにも、アクセスしてないわ……どういうつもりかしら」

 眉をひそめ、画面を覗き込みながら、考え込む演技。その時、可憐の目に、存在するはずのないものが映った。

(何かしら、さっきから点滅してるけど?)

 視線をわずかにずらして、それを見ようとする。赤く縁取りされたウィンドウが、ちかちかと点滅を繰り返しながら、メッセージを表示している。

(英語だわ……こんなの無視すればいいのかしら……)



 その時、同時に4人の動きが止まった。画面には点滅を繰り返すメッセージが、表示され続けている。

The time has come. Remember your real name in brightness.


 点滅は、何か意味が込められているように一定のパターンで繰り返されている。4人は、一瞬のうちに、意識が闇の中へ放り出されるのを感じた。

「まっくらだ……友美、いるか?」
「いずみちゃん? どこ? 声しか聞こえないわ」
「そこに誰かいるの?」
「誰?」
「舞島 可憐っていうんだけど……」
「可憐ちゃん? 水野よ。水野 友美」
「水野さん?」
「いずみちゃん、友美ちゃん……」
「唯か?」
「うん。どうしてこんなところに……」
「他には誰もいないようだけど……」
「真っ暗だから確かめようもないな。お互いの姿も見えないくらいだし」
「私たち、さっきまで喫茶店にいたのに……」
「唯は、お兄ちゃんと一緒にコンピュータを見てたはずなの……」
「私は、ドラマの収録の途中だったわ……」
「何があったんだ?」

 その時、何かが4人の精神に触れていった。ごく軽くだが、はっきりとわかる感触を残して。

「今のは……!」

 誰かがそう叫んだ刹那、4人は現実へと引き戻された。



「可憐ちゃん! どうしたの!? 大丈夫!?」
「え……」

 可憐が周りを見回すと、スタッフが集まってきていて、心配そうに見ている。

「あの、私……?」
「びっくりしたよ。急に倒れ込むんだもん」
「あ、ああ、あの、すみません。本番中に」
「いいから、いいから。ハードスケジュールで、疲れてるんだよ。ちょっと休憩にするから、横になってきたら?」
「はい。すみません」

 そう言って立ち上がってみたものの、どこにも異常は感じられなかった。

(さっきのは夢? 八十八学園のお友達と、真っ暗な中で話をしていたような気がしたんだけど……)

 不図気づいて、パソコンの画面を見てみたが、先程見た点滅するウィンドウは、消えていた。

(何だったのかしら?)

 スタッフに付き添われて、控え室に戻る途中も、可憐は、先程の体験の意味を考え続けていた。



「おい! 唯! 唯!」
「………」
「唯!」

 誰かに名前を呼ばれているような気がして、唯は目を開けた。龍之介が心配そうに覗き込んでいる。

「お兄……ちゃん?」
「良かった。気がついたか」
「唯……どうしたの?」
「どうしたも、こうしたもあるか。急にぶっ倒れやがって。心配したぞ」
「唯、気絶しちゃったの?」
「どこか具合でも悪いんじゃないのか?」
「ううん。もう平気」
「駄目だ。もう少し横になってろ。俺は美佐子さんに言って、薬を貰ってくるから」
「いいよ。もう何ともないもん」
「何ともない奴が、いきなり気絶するか。いいから横になってろ」

 そう言い残すと、龍之介は部屋を出て、階段を降りていった。

(友美ちゃんやいずみちゃんもいたみたいだったけど、何だったのかなあ……)

 鮮烈に残る現実感が、あれを夢と片づけることを拒んでいた。

(何だか……嫌な予感……)

 龍之介のベッドの上で、ぶるっと体を震わせた唯は、先程のことをしっかり思い出そうと目を閉じた。



「……さま! お客様!」
「う……うん……」
「あ、気が付かれましたか」
「あれ……私、寝てたのか?」
「お二人で急にテーブルに倒れ込まれたんで、吃驚したんですよ。どこかお加減でも悪いのでは、ないですか?」
「いや、大丈夫だよ」
「う〜ん……」
「友美、友美!」
「う……あ、いずみちゃん」
「あの、救急車でもお呼びしましょうか?」
「いいです。もう何ともありませんから。ご心配かけて、すみません」

 いずみが、丁重だが、断固とした口調で言うので、店員も、それ以上は憚られて、カウンターの方へ戻っていった。

「私たち……気絶しちゃったの?」
「どうやらそうみたいだ」
「じゃあ、さっきのは……」
「何?」
「真っ暗な中で、いずみちゃんや、唯ちゃんに可憐ちゃんがいたような……」
「友美も?」
「いずみちゃんもなの?」
「じゃあ、あれは夢なんかじゃないのか?」
「わからない……あれを見てからだわ」
「あれ?」
「ほら、画面に点滅するウィンドウが出てたじゃない」

 友美の言葉に、いずみも画面を覗き込んだが、もうあのメッセージは、表示されてなかった。

「あれ、どういう意味だったんだろ」
「真っ暗な中にいたこと?」
「それもだけど、その前に画面でみただろ」
「ああ」
「なんか、英語みたいだったけど」
「The time has come. Remember your real name in brightness. ってやつね」
「『時は来た。光の中で、お前の本当の名前を思い出せ』か」
「ううん……なにかの詩の一部のような気もするけど……」

 それきり二人は黙り込み、各々先程体験した事を考え込んでいた。



「つっ!」

 夕方、自分のマンションに戻った淳は、レポートの整理をしていた。しばらく前から耳鳴りがすると思っていたら、突然、激しい頭痛が彼を襲った。

「………!」

 余りの痛みに声が出ない。耳鳴りもガンガンと頭に響くようだ。

(何なんだ、一体……)

 痛みの激しさに息が詰まる。よろよろと椅子から立ち上がった彼は、救急車を呼ぼうとして電話に手をのばした。

(駄目だ! 意識が!……)

 目が霞み、体が猛烈に震えてくる。立っている事も、座っている事も難しいくらいになり、ベッドに倒れ込んだ。そして、激しい苦痛に2、3度体を捩じらせたが、やがて意識を失った。

 微かに金属がうなるような音がし始める。やがて、それは部屋を響かせるまでに大きくなっていった。同時に、ハンガーにかけた上着のポケットから、ゆっくりと、あのブレスレッドが、強い光を放ちながら、這い出てくる。それは、まるで主を探すかのように、空中にさまよいだし、しばらく回転しながら、そこにどどまっていた。

 そして、何かを確かめるように、断続的な閃光を放つと、ゆっくり淳の腕に向かっていき、吸い込まれるようにぴったりと、左腕の手首にはまった。同時に、それは姿を変え、リストバンド状に変化する。その瞬間、あれほど激しかった音と光が、ぴたりとやみ、辺りは、何事もなかったかのように、静けさを取り戻した。だが、淳は、まだ意識を失ったままだった。



「君たちは、親子ということで、TERA-527へ派遣される」

 ノウンワールド中央情報局の一室に、4人のメンバーが集まっていた。一人は、情報局の第4部調査7課の課長である。彼が、3人に向かって、任務の説明をしていた。

「詳細は、既に送ったレポートで読んでもらっていることと思う。全力を挙げて、この危機に対処してくれ」

 テーブルの左端に座った、おかっぱ頭の少女−まだ15、6歳であろう−が、真剣な表情で頷く。

「こちらからの支援は、基本的には、物質的なものだけになる。まあ、それ以外に何か望まれても困るのだが」
「よろしいでしょうか」

 中央に座った、中年の男性が、厳しい表情で発言した。

「何かね?」
「万一、『やつら』を発見した場合、単独で攻撃を加えてもよろしいのですか? レポートでは、そのことは何も触れられていませんでしたが」
「君たちの任務は、基本的には、『ソルジャー』を探し出すことだ。まあ、彼が見つかるということは、敵も存在するということだが。自衛のための攻撃以外は、原則的に行わないようにしてくれ。報告が入り次第、他の次元に派遣してあるコマンダーを送り込むから、攻撃などの対処は、彼らに任せる事。何よりも、『ソルジャー』を探し出す事に全力を注いでくれ」
「わかりました」

 課長は、右端に座った女性を見た。どことなく落着かない様子だ。

「どうかしたかね?」
「いえ……TERA-527は、随分と辺境の次元です。かなりのカルチャーギャップがあるのではないかと……」
「確かにな。慣れない習慣や、風俗の違いで混乱する事もあるかとは思うが、何とか慣れてもらうしかない」
「はあ……」

 本当は辺境どころではない。科学技術はもとより、全体の文化水準が、4000年は遅れているかという次元に送り込まれるのだ。通常以上に不安を感じても仕方ない。課長は、そう思い、あまり叱咤しないこととした。

「コズエ君」
「はい」

 いきなり名前を呼ばれて、おかっぱ頭の少女は、体を固くした。

「君はまだ、ジュニアステップを終えたばかりのトレイニーだ。今回、派遣されるメンバーの中では、最も若い。無茶をして、怪我などしないように気をつけるんだぞ」
「は、はい! ありがとうございます」

 優しい言葉をかけられても、緊張がほぐれた様子はない。これも仕方ない……トレーニング途中で、いきなり実戦だからな……あの、アミア・フロイラインも、随分神経質になったということだし……課長は、コズエに微笑みかけた顔を引き締めると、おもむろに命令を下した。

「では、直ちに出発してくれ。むこうは、春……4月の2日目頃になるはずだ」
「はい!」

 3人が姿勢を正して、同時に答える。

「君たちと関係を持つ原住民の記憶操作は、真っ先に行うことを忘れないように。君たちの正体は、『ソルジャー』以外に明かしてはならない。いいな」
「はい!」
「では、私から述べることはこれだけだ。次元遷移ゲートへ向かってくれ」



 4月。桜の花も開き始めた頃。淳は、ぶらぶらと八十八市民病院に向かう道を歩いていた。左腕には、あのリストバンドがしっかりと嵌まっている。

「緒黒先輩!」
「おお、龍之介じゃないか」
「どうしたんですか、こんなところで?」
「なに。陽気が良いので、散歩と洒落込んでたとこだよ」
「へえ。優雅ですねえ」
「そういうお前は何してんだ?」
「俺は、いつもの通りのことしかしてませんよ」
「ナンパか」

 思わず笑みをこぼす淳。そんな彼を龍之介は訝しそうに見た。

「先輩、なんだか変わりましたね」
「おいおい、昨日会ったばかりなんだぜ」
「それはそうですけど……何かありました?」
「龍之介の気のせいだよ。大学生の休みなんて、嫌になるくらい、何も起こらないもんさ」
「そうですか?……」

 龍之介は、それでもおかしいと思ってるようである。

「そう言えば、こんなところで油を売ってていいのか? 可愛い女の子が逃げちゃうぞ」
「そうそう声をかけたくなるような女の子なんて、いやしませんよ」
「と言うわりには、機嫌が良さそうだな。もう誰か引っかけたか」
「やだなあ。引っかけたというよりは……」
「なんだ?」
「この先の病院に入院してる子がいましてね。ちょっと可愛かったんで、窓越しに話をしたんですよ」
「お前も手広くやってるな。何も病人にまで手を出さなくても」
「いやあ、窓から姿が見えると、つい木に登っちゃって」
「呆れた奴だ。ナンパのためなら、木登りまでするか」
「何とでも言ってください。桜子ちゃんは、可愛いですからね」
「え?」

 それまで笑っていた淳の顔が急に曇った。

「どうかしました?」
「その女の子の名前だ」
「杉本 桜子……っていうんですけど、お知り合いでした?」
「いや……別人だろう……」

 淳は、冴えない表情のまま、言葉を濁した。龍之介は、何かあると踏んだが、唯一、敬愛する先輩である。迂闊な事は言いたくなかったので、それ以上突っ込んだことを尋ねるのは控えた。

「……それじゃあ、俺は帰りますんで」
「ああ。唯ちゃんに宜しくな……あ、それとな」
「はい」
「あのブレスレッドだけど、しばらく預かってていいかな? ちょっと時間がかかりそうなんだ」
「いいですよ。別に大したものじゃないですから」
「悪いな」
「いえいえ。それじゃあ」
「ああ」

 淳は、しばらくその場に立ち尽くして、龍之介の姿が見えなくなるまで、見送っていた。そして、龍之介の姿が見えなくなっても、表情を曇らせたままであった。

「龍之介が知り合ったか……また前と同じ状況になってきてるな……」

 そう呟くと、重い足取りで、八十八市民病院に向かった。頭の中に、ある言葉が何度も浮かんでくる。


The time has come. Remember your real name in brightness.


「時は満ちたり。光の真名を思い出せ」



 そうか。あれを仕掛けてから、20年以上になるが、とうとうその時がやって来たのか。何度も考えた事が頭を過ぎる。プリンセスとアーリマンの戦いがまた始まる。次元史を揺るがせる事件の幕が開いたのだ。

 そうだな。レディ・ガーディアンを覚醒させないといけないな。光の使徒と違って、彼女たちは俺が封印したんだから。八十八病院の入り口にやってきても、淳はまだ考え込んでいた。

 桜が綺麗だ……今のこの平和を象徴するような、温和な花。この花が散るように、今の平和も、突風に吹き飛ばされてしまうんだろうか。できれば、2000年前の不幸を繰り返したくない。だが、幸先の良くないことに、またしても龍之介は桜子と出会ってしまった。

 彼は、病院の庭に咲く桜を見つめながら、これからやってくる「光」と「闇」のことと、否応なくそれに巻き込まれていく人々のことを考え、憂鬱な気分になった。



 宇宙の外でも中でもないところで、「それ」は、事態の成り行きを見守っていた。

『時は満ちました。再び、「光」と「闇」が戦うべき時が……』

 穏やかだが、悲しげな、しかし不思議と決意ある思念であった。

『今度の戦いは、極めて大切なものになります。今までの戦いは、全てこの時を用意すするために行われたもの……心して下さい……光の子と闇の子と……そして……』

 柔らかく、暖かな思念は、それきり現れなかった。宇宙は今も昔も変わりなく、戦いへと準備を進めていく……





《 第1章 『闇の目覚め』へ続く 》
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